和讃の光
大洞 龍明 おおほら・たつあき 2013年7月20日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
死ぬること
慈悲に包まれる幸せ [上]

 夏が訪れると思い起こす一つの光景があります。
 1945年7月9日夜半、130機の大編隊でB29が岐阜市を襲い、街はたちまち紅蓮ぐれんの炎に包まれました。小学3年生の私は、金華山麓に難を逃れ、市中を見おろすと、煙と炎が渦を巻いて市の中心に集まり、大きな火柱となって天空へ昇っていきました。上空には炎の色に映えた米機が旋回して、まるで赤トンボの飛翔ひしょうのように見えました。
 その時の戦火で、生まれ育った寺は焼け、北琵琶湖の父の在所の寺へ疎開しました。
 そこは、浅井長政の居城があった小谷山おだにやまの北に連なる大洞山と姉川の支流・高時川にはさまれたのどかで美しい山里の集落でしたが、「都会っ子!」「よそもの!」とガキ大将にサンザンいじめられてケガをすることもありました。通学路には高時川にかかる橋を必ず渡るのですが、その橋で帰り途みちに待ちうけていじめを受けたのです。


 4年生の春だったと思います。「今日もまたいじめられるな」と予感すると頭が痛くなり、学校へも行けず床に就いていました。「これからどうすればいいのか」「こんな苦しい思いをするのなら、死んだ方がまし」と考えあぐんだあげく、隣の部屋で村人から頼まれて黙々と和服を縫って暮らしのたしにしていた母のそばへ寄ってゆきました。
 「お母さん、人は何のために生きているの?」「人間の幸せは何ですか?』とそんな意味のことを訪ねました。
 「人間はねえ、死ぬるということがあるのが幸せなのよ」と思いもよらぬ言葉が返ってきました。
 死という言葉に私はたじろぎ、なんと言ったらよいのかもわからず、ただ、母の次の言葉を待ちました。
 母はわずかに顔をあげると眼鏡ごしに私を見やり、微笑ほほえみをたたえた顔で一、二度静かにうなずくと、また黙々と針の手を動かし始めました。
 人間には死ぬるということがある—それがなぜ幸せなのか。そのような人生観はどこからくるのか。
 私が成人していろんなことを学ぶようになって分かってきたこと、それは人生観というより死生観であり、明らかに仏教思想に由来をもっている、ということでした。
 母は86歳で亡くなる前に、親鸞聖人がお作りになったご和讃(仮名交じりの歌)を何度も口ずさみ「このご和讃は、本当にありがたいお歌です」と申していました。

 十方微塵じっぽうみじん世界の
 念仏の衆生しゅじょうをみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀あみだとなづけたてまつる

 (意訳=阿弥陀如来さまは、ご自身の光をこの大宇宙の無数の世界にいきわたらせ、最後の一人まで救い取って見捨てることをされないお方なので、アミダというお名前を名乗っていられるのです)

 私ども一切の生きとし生けるものが救われていく道は、大無量寿経の四十八願がんの中に明らかにされています。
 その中でも第十八番目の願は「念仏往生の願」と名づけ「南無阿弥陀仏を称となえよ。南無阿弥陀仏を称える者は、どんな悪人でもどんな罪人でもそのまま救う」と誓われているのです。
 一般的に「人が救われる」ためには「悪を慎んで善きことを行う」「自分の欲を抑えて困った人に施す」「自己を犠牲にして社会に尽くす」といった徳行が要求されます。そういう行いを積むことで救われていくのだと考えられているのです。
 ところが「摂取して捨てざれば」という阿弥陀如来の大慈悲の中では、善人も悪人も罪人も何の隔てもなく救われていくのです、悪人が善いことをすれば救ってくださるとか、罪人が罪滅ぼしすれば救ってくださるとか、そのような条件を一切おっしゃらないのが阿弥陀如来さまです。


 母が84年秋、世を去る3日前、私は母の部屋に自分のふとんを運び入れ、一夜、添い寝をしました。下しものものをとり換えるたびに母の苦労を偲しのび不孝をわびました。
 「人間にはねえ、死ぬるということがあるのが幸せなのよ」の言葉通り、摂取の光に包まれた安らかな往生でした。

釈迦弥陀は父母
いつくしみ深い心と愛 [下]

 中学3年の夏休みのことです。父に託された手紙と品物をもって親戚の家におつかいに行きました。
 名鉄岐阜駅から笠松を経由して竹鼻線の終点(現在の羽島市)で降り、汗だくになりながら長良川堤まで歩きました。当時は橋はなく、渡し舟で向こう岸に着きました。
 石垣を高く積んで洪水に備えた広大な屋敷に住むその家の主人は、戦後土木業によって一代で財を成した人で、村会議員などの公職にも就いていました。お腹がでて、カップクが良く、イカツく、浅黒い顔をしていて、面と向かうとコワくて親しみをもてない人でした。60ほどの年齢だったと思います。
 父の用件を済ませると、もう外は暗くなっていたので夕食をいただき、泊めてもらうことになりました。寝たのは主人の隣部屋です。夜中、私は何となく気配を感じて眼をさましました。
 「おとっつぁん、おっかさん、ナンマンダブ」「おとっつぁん、おっかさん、ナンマンダブ」と何度も称となえる大きな声が聞こえてきました。
 あんなコワイおじさんが夜中に亡くした父母を呼び、念仏を称える声に接し、その人への思いが、がらりと変わっていったのを覚えています。
  十億の人に
  十億の母あらむも
  わが母にまさる母あり
  なむや

 この歌は、大正から昭和にかけて活躍された東本願寺系の高僧・暁烏敏あけがらすはや師という方が作られました。
 この方が説教をなさると、近くの人だけでなく、遠い遠いところからも汽車に乗って聴聞ちょうもんに大勢の人々が、おとずれるのです。


 私の高校時代の恩師に狩野真一という先生がおられました。狩野派絵師の末裔まつえいで歌舞音曲にも秀で、ピアノを弾きながら朗々たる美声で「荒城の月」を歌ってくださったのに感動しました。
 狩野先生はNHKのアナウンサーを定年まで勤めあげた人で、人格・情操教育を重視する校長先生に請われ特別講師を引き受けられたのでした。「仕事を通じていろいろな人に会う機会に恵まれた中で、別に驚くような人もいなかった。しかし暁烏敏というお坊さんだけは、小さな方なのだけど、傍そばに寄るとこちらの体が震えてきて、恐れ多い感じがした、たった一人の人物でした」と述懐されたのです。
 そのような厳しく近寄りがたい方が「わが母にまさる母ありなむや」と詠まねばならなかった心境は、いかなるものであったのでしょうか。
 臨済宗妙心寺派の名僧・山本玄峰げんぽう老師は、95歳で亡くなる直前まで『母』という揮毫きごうを人々に与えておられました。老師は捨て子にされ、拾われて流浪の後、土佐の雪蹊寺門前に行き倒れていたのを住職に助けられ、のちに出家得度されたのです。
 「捨て子にしたお母さんのことを、どうして書にされるのですか?」との問いに「それでも母はありがたいのです」と涙ながらに黙々と「母」の字を書き続けておられたといいます。

 釈迦弥陀しゃかみだは慈悲の父母ぶも
 種々しゅじゅに善巧方便ぜんぎょうほうべんし
 われらが無上の信心を
 発起ほっきせしめたまひけり
(意訳=お釈迦様と阿弥陀さまは、いつくしみ深い父母と同じです。私ども一切の苦しみ悩む人々が救われていく道は「南無阿弥陀仏を称える者は必ず救う」との阿弥陀如来の誓いを信ずる他にはありません。その誓いを信ずることは私どもの力ではできないので、如来さまはいろいろな方法を尽くし信ずる心を与えようとしてくださるのです)

 「ようこそ私を捨ててくださった」「ようこそ私を拾ってくださった」と、人生に何の恨みを抱くこと亡く、深い母の愛を信じて疑わなかった玄峰老師の姿は、なんと光り輝いていらっしゃることでしょう。


 悟りの世界・信心の世界とは、このような心境を開いてゆくことです。
 最近、私はふと夜中に「お父さん、お母さん、南無阿弥陀仏」と称えている自分に気づくことがあります。
 少年の頃、親戚のおじさんが「おとっつぁん、おっかさん、ナンマンダブ」と何度も何度も称えるあの時の声と、私の声とが同じ響きをもっていることにハッと気づかされるのです。

おおほら・たつあき 1937年、岐阜市生まれ。名古屋大大学院・大谷大大学院博士課程で仏教を学ぶ。真宗大谷派宗務所企画室長などを経て、現在光明寺(岐阜市)住職、東京国際仏教塾塾長、「鳩摩羅什三蔵法師顕彰会」代表世話人。著書『生と死を超える道』(三交社)『こころとライフワーク』(主婦と生活社)など。