"ライフ・ワーク・バランス"再考
哲学者・大谷大学教授 鷲田 清一 2013年6月19日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
公民活動薄れる危うさ
|
いつの頃からか、行政や労働団体のなかで"ワーク・ライフ・バランス"ということが謳うたわれるようになった。
「仕事と生活の調和」。これが謳われた背景には、成績第一の勤務のあり方、あるいはそれと結びついた仕事中毒(ワーカホリック)という依存症的なメンタリティーが起因してのことであろうが、「うつ」のような精神の失調が職場にじわじわと広がってきたこと、過労死や家庭崩壊が社会問題になってきたこと、そしてそれらが出生率の低下や少子化にもつながっていることなど、いろんな事情が考えられる。同時に謳われだした「男女共同参画」も、男性を子育てや老親の介護、地域生活のあれこれに引き込まずには実現しようがない。要するに、仕事と私生活のあいだでいろいろな齟齬そごやきしみが生じていて、そのあいだでうまくバランスをとる必要があるということで、提唱されたらしい。
言葉尻をとらえるわけではないが、"ワーク・ライフ・バランス"という物言いでまずひっかかるのは、ワークがライフと対置されていることだ。ワークがライフの一部とならず、ライフと切り離されたかたち、対立したかたちで成り立っていることじたいが、異様なことなのではないかとおもう。
けれどもそのこと以上に問題におもうのは、"ライフ・ワーク・バランス"のワークがしばしば「勤め」として公務のようにイメージされ、ライフが「個人生活」ないしは家事や育児、近所とのつきあいなど「私生活」としてイメージされていることだ。
明治期だったら、産業活動は、もちろん一攫千金という夢でもあったろうが、「経世済民」の一環、つまりはこの国を支えてゆくために担うべき公共的な活動という意味を多分にもっていた。戦後の高度成長期でも、じぶんの作っているものが国民の暮らしを豊かにすることに直結しているという感覚で、仕事に就くことができていた。
けれども、第三次産業が中心で、かつグローバル競争に深く巻き込まれている現代の会社勤めに、そういう感覚はともないようがない。いかに利ざやを稼ぐかという、営利による法人維持と金融ゲームで汲々きゅうきゅうの企業活動の中で、社員はまさにじぶんの所属している特定企業の利益第一で動くのだから、その活動はまさに私的なものである。
一方、ほんらい、個人の生活には「公民」としての、つまりは地域住民や市民や国民としての活動が含まれるはずであるのに、現代ではそれが、行政や企業が提供する医療、流通、教育、情報、娯楽などのサービスを消費するだけの「顧客」としての活動に約つづめられてきている。だから地域運動もたやすく地域エゴに変質してしまう。
この二つのこと、"ワーク・ライフ・バランス" のワークもライフもともに「私的」な性格しかもちえなくなっていること、それが問題なのだ。いいかえると、「私」企業での勤務と「私」生活にのみ意識を注ぎ、公共的なことがらは「お上」に委まかせるというふうに、市民生活が「私」的なものへと縮まっていることが。
ボランティアやNPOや自治活動といった「公民」としての活動に、ワークとライフとが内からつながっていかなければ、この標語はむしろ危うい。