「落ち着き」を生きよう
本多 弘之 ほんだ・ひろゆき 2013年1月5日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「自己を知る」ということ
欲は心の客にすぎない [上]
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現代社会は、日々目まぐるしく動いている。その中で生活する私たちは、いつのまにかこの激しい変動に巻き込まれて、忙しく流されるようにして生きているのではないか。「忙しい」という字は、「心を亡くす」ことだから、自己自身の心を見失って流されるように生きているわけである。現代のこういう事態は社会的事情であるから、やむを得ないともいえようが、自己を失ったままでは、いかにも情けないではないか。こういう時代ではあっても、自己自身を取り戻す道がきっとあるはずである。
試みに仏教の自己探求のありかたを、少し考えてみよう。そもそも自己を失っているとは言ってみたけれど、その失っている自己とは何か。「心をうしなう」という、その「こころ」とは何であるのか。こころを失うというと、何か現代の生活者に共感を呼び起こすのだが、それは我々の意識のどの辺について、「失う」というのであろうか。
現代の生活は、意識活動が減少しているわけではない。むしろいろいろなことに「神経」をすり減らしているのである。神経を使うことは、意識の使いすぎでこそあれ、意識活動が減ってるわけではない。では何を「失う」ことが問題となるのか。
人間にとって、確かに存在していると言い得るのは「意識するはたらきと意識されている内容」のみである、という考えを、「唯識ゆいしき思想」という。この場合の「識」とは、「意識する」という作用のみでなく、その意識内容、すなわち意識されている対象や、そこに起こっている心理作用をも包んでいる。この心理作用を、「心所有法しんしょうほう」、略して心所法しんじょほうあるいは心所という。心が起こる時には、かならず何らかの心所が同時に起こっている。たとえば、花を見る時には、きれいだなとか欲しいなとかいう感情が付いているということである。
私たちが、普通に「こころ」と言う時には、この「心所」のことを言っていることが多い。情緒とか情念というのが、この心所のことなのである。心それ自体は、普通には私たちは意識できない。意識していることそれ自体なのだが、それを自分で意識して見ることはできない。しかし、意識していること自体は、どこかで知ってはいる。しかし、現実の私たちのこころは、意識に付帯する心所にむしろ突き動かされているのである。
現代生活は、金銭的欲望の社会現象に動かされている面が強い。この場合も、「欲」は心所法であって、「心」それ自体ではない。私たちは欲が本当の自己自身ではないことを、どこかでは感じつつも、自己の意識に付属して起こる心理作用(心所)の欲望を、自己だと思ってしまっている。仏教では、煩悩を「客塵きゃくじん」というのだが、煩悩は心所法だからである。これは私たちの主体が「心」であって、心所はそこに起こる「お客さま」なのだという見方から来るのである。主客の顛倒てんとうということがあるが、私たちは自己に起こるお客の心理作用に主人の場所を奪い取られていることが多いのである。
特に現代生活は、大地や草木などの自然環境から遠ざかり、いわゆる文明化した人工空間で生活している。ここで起こる心理作用において、私たちの本来の自然な自己自身のいのちが奪い取られているという感覚が、「自己喪失」状態といわれる忙しさの感覚の原因なのではなかろうか。この多忙な生活から、一時的に旅行に出たり、自然の豊かな場所に散策に行ったりすると、なにか「こころ」が取り戻されるような感覚が与えられるのには、それ相応の意味があるのである。
こういうわけで、まずは私たちの自己自身を取り戻すために、意識に付属しながらわが物顔に動き回る「心所法」を、客塵と見るゆとりを持つ工夫をしてみてはどうであろうか。そして、自己自身とは何であるかをしっかりと認識することが、この多忙な時間にあっても、何より大切な自己を取り戻す方法になるのではないか。
立脚地を見いだす
深層の自己を知り感謝 [下]
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「こころ」とは、自己自身であると、一応考えてみた。しかし、熟睡していても、さらには、たとえ昏倒こんとうしたとしても失われない自分がある。その間の「こころ」は、夢を見ている場合は別として、意識としては消えている。しかし、目が覚めれば前の自己とおなじ自分を感ずる。その前後を貫くのは、「こころ」というより「身体」であろう。その身体を包んだ意識を「阿頼耶識あらやしき」と唯識では言う。
阿頼耶識は、一切の経験の結果を蓄積して、それを生きている意識である。この意識は、私たちが意識しようとして意識できる対象にはならない。熟睡していても作用しているけれど、熟睡状態なら、自覚できるはずがない。それで、この識は深層意識であるとされる。この識は、身体と環境をもって自己としている。そうしてみると、阿頼耶識とは、いわゆる意識よりも深い生命そのものを言い当てているのである。
近代生活は合理化されて、人間理性に都合が良いように作り直されている。しかし、生命そのものは、合理性で生きているのではない。不可思議の因縁と言われる諸条件によって、私たち一人ひとりの心身しんじんが与えられているのである。身体は、その誕生にあたって、生命の歴史を再現しながら形成されてくると言われる。何億年といわれるような生命の歴史を繰り返して、今の自己の生存が与えられてきているのである。
この生命の歴史を、唐の善導大師は「自身は現にこれ罪悪生死しょうじの凡夫、曠劫こうごうよりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(自分は本当に罪深く迷いの中にさまよう凡夫であり、たすかることなどできない身である)と言われた。深層意識としての自己、すなわち阿頼耶識には遠い過去からの罪と迷いの生活史が蓄積されてることを、現在の自己自身に感ずるということなのであろう。
私たちの意識は目覚めた状態の「こころ」しか意識できないから、この見えない深みにある自己のことは、不可解としか思えない。けれども、罪の歴史を背負っている「身心」がここに生きて与えられている不思議さを知ると、感謝せずにはいられなくなる。
親鸞は大いなる慈悲としての「弥陀みだの本願」が、始めなき罪の歴史を生きる自己自身を受けとめてくださり、自己自身を支えてくださっているということで、「弥陀の五劫思唯ごこうしゆいの願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」(阿弥陀如来が苦悩の人々を救うためにどうすべきかを考え続けたのは、親鸞一人が課題だったのだ)(『歎異抄たんにしょう』)とつぶやいた。
先の善導の言葉は、漢文では「深信自身」で始まり、自分は「罪悪生死の凡夫」だと「深く信ずる」という。この自覚は深層の自己(阿頼耶識)を、自分の自覚意識にすることである。つまり「こころ」としての自己を、生きている身のレベルにまで深めて、自分がここにいる背景を過去からの生命の不可思議な歴史として頂くのである。
不安な「こころ」や揺れ動く心理の深みに、あたかも大波小波で騒然たる海面の下部に、静かな深海が存在するごとく、一切の生存の歴史を引き受けて、寝ても覚めても生きてはたらいている深層の自己がある。
宝蔵菩薩ぼさつが衆生を救いたいと願う心とは、この世のさまざまな情況じょうきょうの差別を超えて、あらゆる衆生を平等に救済せずにはおかないというこころである。この大悲のはたらきは悩みの深い凡夫に寄り添って休むこともなく、終わることもない。自己を支えて生きているような深層の自己に「兆載永劫ちょうさいようごう(途方もなく長い)の修行」をし続けている宝蔵菩薩の願心を感得すると、表層の「こころ」にとって始末に負えない心所法しんじょほう(心理的作用、例えば怒りや腹立ちなど)がいかに自己を苦しめようとも、それによって自己自身が見失われることはない「落ち着き」を獲得できるであろう。
心の自立を求めてみると、心所法は決して心の意志に従うわけでなく、因縁のままに発起するものであることを、いやというほど知らされる。しかし、そのレベルでは、本当の落ち着きは獲得できない。その心の深層のはたらきは、理性的意識で知ることはできないのだが、身体が生きている事実に罪の歴史や迷いの背景があることを知らされると、それにもかかわらず黙って生きている身体に、もったいない、ご苦労さまと、感謝し身を支える大きなはたらきに安住できてくるのだと思うのである。
ほんだ・ひろゆき 1938年、中国・黒竜江省生まれ。東京大農学部卒。大谷大助教授を経て、現在、親鸞仏教センター所長。真宗大谷派本龍寺住職。著書『親鸞思想の原点』(法蔵館)、『浄土』3巻(樹心社)、『親鸞と悪』(春秋社)など多数。 |