良寛の地震体験に思う
阿満 利麿 あま・としまろ 2012年4月14日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
災害と向き合う
現実の全体を引き受ける [上]

 1828(文政11)年11月12日(旧暦)、今の新潟県三条市を震源とする大地震が起こった。地震の大きさは、マグニチュード(M)6.9。三条の町は全滅、廃虚はいきょと化した。
 その被災者の一人に良寛(1758~1831年)がいた。町の惨状を目前にして書かれた漢詩や手紙が残っている。
 なかでも有名なのが、「災難にあう時節には災難にあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃るゝ妙法にて候」の一節である。これは、酒造家・山田杜皐とこうに宛てた手紙にある。
 この文章は、しばしば、自然のままに随したがうのがよいという「悟り」の心境をあらわすと解釈されがちだが、そうであろうか。


 手紙は短い。はじめに、地震はまことに大変であった、自分と自分の住まいは無事である、親類中にも幸い死者はなかったのはありがたい、と記して、つぎに、地震で死ねばこのようなつらい目に遭わなかったであろうに、生き延びてしまい、この惨状を見るのは悲しい、という旨の短歌が添えられている。そして、そのあとに、「しかし」として先の引用文が書きつけられている。日付けは「臘八ろうはち」だ。
 この手紙で大切な言葉は「しかし」と「妙法」、それに日付けの「臘八」である。まず「しかし」だが、良寛は手紙の短歌で、災害の惨状を悲嘆している。ほかの短歌においても、涙が止まらないと率直にうたっている。こうした悲嘆の思いを受けて「しかし」なのである。つまり、「災難にあう時節云々うんぬ ん」の文は悲嘆する自己に向かって説かれているのではないか。お前は仏僧ではないか、悲嘆ばかりしていてよいのか、「妙法」にしたがってこの逆境を越えてゆかねばならないのではないか、という自らを励ます言葉なのだ。
 ここでいう「妙法」とは、世間でいう、優れた方法という意味ではなく「仏教」のこと。仏教は、人間を含めて一切の存在が「因・縁・果 」の膨大な網のなかに浮かんでいるという事実から出発する。「因」とは直接的な原因、「縁」とは「因」の周りにある無数の間接的原因、その「因縁」がからみあって「果 」(結果)が生じる。そしてその「果」はまたただちにあらたに「因」や「縁」となってはたらくのだ。


 ただ、私たちは、この膨大な「因・縁・果」の網を、正確に知ることができない。なぜなら、肥大化した自我は、自分に都合のよいことだけを寄せ集めてきて、それらをもって現実とみなしているからだ。だからこそ、「想定外」の出来事が起こると、激しく動揺する。
 「災難にあうときは災難にあうのがよい」ということは、災難から逃げずに、災難と向きあうということだろう。災難と向きあってみると、今まで自分が何を頼りとして生きていたのかがはっきりする。何よりも、自分の都合のよいように現実を歪ゆがめて理解していた「愚かさ」が判明する。また、今まで肥大化した自我によって見えなかった関係にも気づかせてくれる。
 そうすると、あらためて人々への思いやりやその苦しみを共に解決してゆこうという決意も生まれてくる。「災難から逃れる」という言い回しが、消極的に響くだけであって、逃れ得たところに生まれるのは自在な精神であろう。
 不幸の時に幸福を願うのは、人情であっても仏教ではない。幸・不幸、非常と平常の区別にかかわらず、その全体をたじろがずに引き受ける立脚点を教えるのが仏教なのだ。それが「妙法」にほかならない。
 ただし、その「妙法」を生きるには、「行ぎょう」が不可欠である。「行」がなければ、仏教は単なる思想であり哲学であり、人生論にすぎない。良寛のこの短文は、「行」によって裏打ちされた仏教徒の生き方が説かれているといえよう。
 「臘八」とは釈尊が悟られた12月8日のこと。それを記念して禅僧たちは坐禅に励む。良寛が仏教徒の自覚を新たにするにふさわしい日付だ。
 現実をたじろがずに引き受けて生きる、そうした強い意志は、良寛の場合、その漢詩においていっそうはっきりとする。

行動する仏教徒
世間の堕落、退廃を正す [下]

 「災難にあう時節には災難にあうがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃るゝ妙法にて候」の一文について、多くの解説はそれが良寛の「任運(成り行きのままに任せ切る)」の境地をよく示すものであり、良寛の「悟り」にほかならない、という。だが、私には、もう少し別の解釈がある。「災難にあうときには死ねばよいのだ」ということは、災難や死を淡々と受け入れよ、ということだけではなく、災難や死と向き合って、日常的な自己が無力となるなかで、本来の自己のあり方を求める積極的な生き方を教えているように思われるからだ。
 そうした積極的な生き方が、同じ新潟・三条の大地震の際につくられた漢詩には、もっとはっきりと表現されている。漢詩の題は「地震後詩」。今は現代語訳で紹介しよう(初めの6行は省く)。


「過ぎこし40年をいま降り返って見れば、世情は実に駆けるような勢いで軽薄へと流れた、そのうえ大平に甘えて人心はたるみ、邪悪な輩やからは群れを作って競ってこれを利用した、恩義をば却かえって讐あだで返し、信義などとんと知らぬ顔、得な話となれば毛一本でも奪い合い、道の話ときては骨の随までのおろかさ、倣おごり高ぶり人をだまして凄すご腕と自慢し、紫を朱に変えるペテンが何年続いたことか、鹿を馬と言いくるめて知らぬ顔、満天下の人びとはみなこの調子…すべて物事は見えぬところから、見えるようになるのがやはり常、この度たびの災禍はこれでも遅いくらいのものだ、ひとかどの人間たるもの意気込みをもつべし…人を怨うらみ、天をなじることはすまいぞ」(入矢義高訳注『良寛詩集』)。
 ここでは、地震が世の中の退廃や堕落、不条理に対する警告としてうけとめられている。近代以前の社会では、人は自然界の一員にすぎないという自覚が深く、人間世界と自然界(「天」)は通じ合っている杜いうことが常識となっていた。それだけに自然災害を人間世界への警告と見る風潮は現代よりはるかに強かった。
 それにしても、良寛がここでうたっている人事の退廃ぶりは、なんと現代と通じていることか。人間のどうしようもない愚かさこそが人間の本質なのだ、と思い知らされる。
 良寛のこうした憤りはこの大震災に始まったことではなかった。日ごろから、世の中の堕落や退廃に敏感であったことは、ほかの漢詩から容易に発見できる。とりわけ、金持ちや幕藩体制に守られて安逸をむさぼる僧侶への批判は鋭い。
 良寛といえば、世間では子どもと手まりを楽しむ乞食こうじき僧という、浮き世離れしたイメージが広がっているが、そうした行為も、その背後には現実社会の矛盾に対する痛憤があってのことなのである。そのことをよく示しているのも漢詩である。現代語訳で紹介しておこう。
 「末世の軽薄な風潮が純朴さを払いのけて以来、どれほどの月日がたったことか、学問をやる人はやたらと文を飾り立て、僧侶ときたら頑固に道理にしがみつく…いっそ子どもらと一緒になって、春の日永を鞠まりつきして遊ぼう」(入矢義高訳注『良寛詩集』)。
 大げさにいえば、自我の主張が時代とともに激しくなるのに対して、良寛はそうした自己主張を打ち捨てるところに人間の自由がある、と考えていたのであろう。


 先の大地震の漢詩にもどる。良寛は世の中の堕落、退廃を憤り、「(人を怨み、天をなじったりせずに)ひとかどの人間たるもの意気ごみをもつべし」と自らを励ましている。ここで私が注目するのは、「ひとかどの人間たるもの」という言葉である。もとの漢詩の言葉でいうと「大丈夫子」(「大丈夫の子」)なのだが、はたして「ひとかどの人間」という訳でよいのであろうか。というのも、「大丈夫」はもともと仏教語で、仏道にまい進する「菩薩ぼさつ」を意味する。
 仏教語としての「大丈夫」だとすると、この漢詩には、世間の堕落、退廃、不条理に対して、仏教徒としてそれと向き合い、それを正してゆくという決意がのべられていることになるのではないか。なぜなら、「菩薩」とは、ひたすら人びとの苦しみをわが身に引き受け、その苦しみの根を断つために行動する仏教徒を意味するからだ。
 良寛は三条の大地震を契機に、仏教徒の生き方はどうあるべきなのかを、まず自分に問い直したといえるのではなかろうか。それは、「3.11」以後の、不安な時代を生きる私たちに重要な示唆を与えているように思われる。

あま・としまろ 1939年、京都市生まれ。京大教育学部卒。NHKディレクターを経て明治学院大教授。現在は同大名誉教授。「連続無窮の会」同人。著書に『行動する仏教』『宗教の深層』(ちくま学芸文庫)『親鸞』『法然入門』(ちくま新書)など多数。