震災から何を学びつつあるのか
島薗 進 しまぞの・すすむ 2012年3月10日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
死生観への問い
今、伝統の力を再認識 [上]
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東日本大震災はマグニチュード(M)9にも及ぶ巨大地震に加え、津波と原発災害により多くの人命を奪い去り、日本の国土に残酷な爪痕を残した。2万人近くの死者の追悼がこの国土に住む者の責務と感じられている。3月11日の節目には多くの人々が被災者とともに死者を偲しのび、悲しみを新たにするとともに、困難に満ちた今後の生活をいかに過ごしていくか、また支援していくことができるのか思いを凝らすことだろう。太平洋戦争の終結後、新たな死者の霊を偲び、ともに悲しみを分かち合う葬祭や慰霊の儀礼の意義が、これほど強く納得されたことはなかったかもしれない。
ここ数年、自然葬や樹木葬などの新しい葬送法が注目され、人心が伝統的な葬儀から離れつつあると論じられてきた。伝統的な死生観に対する距離感が広がり、人々はそれぞれに新たな死生観を練り直していかなくてはならないと感じている。漫画や映画や音楽など大衆娯楽文化の中でも、新たな死生観の探求を表現しようとするものが増えている。アカデミー賞をとった映画「おくりびと」は2008年の作品だが、そこでも葬儀社の社長が「どんな宗教にも対応します」と、死者を送る気持ちが宗教宗派を超えたものであることを強調していた。
だが、実はそこに伝統への篤あつい敬意も隠されていたのではなかったか。刊行されたばかりの拙著『日本人の死生観を読む』でも述べたことだが、死生観とか死生学に関心が集まるのは、伝統的な死生観の喪失を惜しむ心情と関わっている。この「死生観」という語は、1904年に武士の家の出である著述家、加藤咄堂とつどうが創り出した言葉だ。明治維新後、西洋文明を取り入れ、「坂の上の雲」を見つめ前へ前へ進もうとしてきた日本人だが、そろそろ本来の心のよりどころを見直すべきではないか。「死生観」という言葉が使われるようになった背後には、このような思いがあった。
今、私たちが死生観に目を向けようとしている背後にもよく似た事情がある。東日本大震災では人知人力の限界を思い知らされた。人々が営々と築いてきたものが、あっけなく破壊される場面を目の当たりにした。そして、岩手の詩人、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」がよく読まれた。この詩は「行って」他者を助けようとする利他心を鼓吹するものだが、また「デクノボー」であることを勧めるものでもある。デクノボーとは法華経の常不軽菩薩じょうふきょうぼさつを形象化したものだ。この菩薩はあらゆる人に対してその仏性のために祈る修行者だ。だが、そのために他者から罵倒され尽くす人物の像でもある。
賢治にとってそれは「慢」「増上慢ぞうじょうまん」を省みる姿勢の象徴でもあった。「雨ニモマケズ」は人類の「慢」を省みて、過去の人々の知恵に頭を垂れようとするものとも言える。過去の先人の知を乗り越えることばかりを目指してきた人間は、今や死生観をおいて新たなものを生み出しうるのだろうか。もしそうだとしても、結局のところやはり過去のそれへの依拠を脱することはできないのではないか。東日本大震災によって、死生観を問う日本人は伝統の力を再認識させられているのかもしれない。
1920年代、30年代に書かれた宮沢賢治の作品には死者の魂との交流がしばしば描かれている。賢治だけではない。若くして死に親近感をもち、そこから自らの心の落ち着きを得ることができた大正期の志賀直哉のことも思い起こさせる。太平洋戦争後の日本人はこの種の死生観表現にやや距離を取っていた。しかし、東日本大震災後の日本人はむしろ賢治や直哉の描く死者や死の予兆に親近感をもつのではないか。
彼らの死生観の背後には死者と生者の近しさを日々実感できた時代の感性が反映している。明治三陸大津波の記憶も新たな時期、岩手県遠野の人々の他界観を濃密に描き出した柳田国男『遠野物語』を念頭に置くとよい。死と生、死者と生者が隣り合わせにいてすぐに顔を合わせるような世界を描いた柳田は、そうした世界にこそ生者同士が尊ぶべき絆の根があると考えたのだ。
信頼を取り戻すために
諸システムの再構築を [下]
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東日本大震災と福島原発災害はわずかな時間を隔てて発生し、前者が後者を引き起こし、ともに甚大な被害をもたらしたのだから両者は切り離し難い。だが、災害の原因という点でも災害への対応という点でも違いが大きいのも確かだ。どちらの災害も私たちの信頼感を根底から揺さぶり掘り崩した。失われた信頼の性格は重なるところもあるが、大いに異なるところもある。とにかく信頼回復のために日々学んでいきたい。
私たちはこれほどの地震や津波に襲われると予想できなかった。人間が築いてきたものがここまではかなく破壊され流され尽くすとは想像もできなかった。大いなる自然の恵みを享受できると考え、さまざまに自然に好きなように手を加え利用してきたが、美しく恵み豊かな自然がまったく異なる様相を見せ、これほど多くの人命を奪い大切にしてきたものを流し去るとは思っていなかった。
毎年起こる各地の災害などで自然の厳しさを頭で知ってはいた。だが、広範囲の住民すべてがからだの底から自然の脅威を思い知らされた衝撃は大きい。第二次世界大戦後の生活で私たちは豊かさを求めることになれ、それが達成できるのを当然のように思ってきた。政治経済も科学技術も精神文化もそれに値するものだといつしか思い込んでいなかったか。私たちは自分たちの力を過大評価していたのではないか。宮沢賢治が強く意識していた「慢」という言葉が度々思い起こされる理由の一つがここにある。
日本の政治経済や科学技術や精神文化に「慢」がはびこっており、実はかくも頼りないものだったのだ。これは震災と原発災害の双方に言えるが、原発災害がそれをいやが上にも深刻なものにしていると述べるのに対し異論は少ないだろう。震災は天災だが、原発災害は人災が大きい。不信感の深刻さは原発災害によるところが大きい。
責任ある地位の人たちが安全を軽視し原発事故が起こったこと、また原発災害への政府や東電の対応がまことにお粗末だったことも多くの国民に衝撃を与えた。「原子力ムラ」があり結束して自分たちに都合のよい情報を流し、起こりうる住民の被害を軽んじてきた。事故が起こっても、「安全」「健康に影響はない」を繰り返している。今なお多くの国民の生存を左右する重要な事柄が「原子力ムラ」の人たちに委ねられている。
こんなことが起こるのは、原子力利権がその周辺を含めると広大なものだからだろう。政府や国会議員、財界、官界、学界・マスコミの相当部分の人々が原発推進や安全宣伝に関わったことがあり、それが適切だと信じていた。彼らの一部は事故後もなお安全宣伝寄りの態度を改めることができず、被害はとるに足りず電力供給のために原発は必須で輸出さえすべきだと主張し続けている。
このため人々の意見は原発維持/脱原発、リスク軽視/リスク重視の両極端に分かれがちである。福島県内や他の線量の多い地域では、この分裂が大変深刻なストレス要因ともなる。家族でも職場でも地域社会でも考え方の違いによる不信感が人々を悩ませるのだ。放射性物質の影響でただでさえストレスが多いところに、このような近しい人々同士の不信感が加われば、心の痛みはさらにはなはだしいものとなる。
では、このような信頼喪失を克服していくにはどうすればよいのか。専門家が支えるシステムにこそ問題があった。政官財学峰それぞれのシステムをしっかりと点検し、新たなシステムを構想・形成する努力を重ねていくことだろう。
たとえば、原子力安全委員会、放射線審議会のように政府が専門家を招いて形作る委員会のあり方に大きな問題があった。これは是正できる。専門家は信頼を失った理由をよくよく自覚し、改めていかなくてはならない。これには長い時間がかかるだろう。
国民は自らの持ち場をよく省みるとともに、諸システムに対して声を上げ見守り続けることを忘れないようにしよう。それは「慢」を見抜く脚下照顧の歩みによってこそ支えられる。その道筋の一歩一歩が信頼回復への歩みとなろう。
しまぞの・すすむ 1948年東京都生まれ。東大文学部卒。現在、同大文学部・大学院人文社会系研究科教授。専攻は近代日本宗教史、死生学。著書に『現代救済宗教論』(青弓社)『スピリチュアリティの降臨』(岩波書店)『宗教学の名著30』(ちくま新書)『国家神道と日本人』(岩波新書)『日本人の死生観を読む』(朝日選書)など。 |