東日本大震災で気づいたこと
西村 惠信 にしむら・えしん 2012年1月28日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「死」に直面する現代人
然は本音吐いただけ [上]
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去年の東日本大震災によってすべての日本人は、原子力発電の安全神話の夢から叩き起こされた。お互いに夢を見ているときは、夢であることにさえ気付かない。いや、天龍寺の夢窓国師むそうこくしに従えば、覚めたと思っていても、それもなお夢の中ということであるらしい。
地震や津波はいわゆる天災であって、人間にとっては如何いかんともしがたい自然の脅威である。しかも人間は恐れを知らず自然に立ち向かおうとするばかりか、その自然を思いのままにしようとする。そして自然もいちおうは沈黙して、人間の所業に従っているように見える。
人間がそういう従順な自然を思いのままにしてきたつけが、いまようやく人間に回ってきたのであろうか。地球の温暖化や環境汚染による地球上の生態系の著しい混乱は、さすがの優しい自然も怒り心頭に発したのであろう。恐ろしいのはここで自然の見せる[死の相]である。あらゆる生き物を生かし育てる自然は、同時にこれを抹殺する権利も併せ持っているかのようである。禅語に[活人剣かつじんけん、殺人刃さつじんとう]というが、さすがに自然らしい[無心]の、恐るべきはたらきと言うべきであろう。
震災の後、電力関係の人が、声をそろえて津波の大きさは「想定外」であったというのを耳にし、これでもなお人間は自然に対する優越感を捨てきれないのかと、嫌な気持ちになった。いったい誰が、人間にこのような傲慢ごうまんを教えたのであろうか。
昨年末、朝日新聞連載の「プロメテウスの罠わな」というコラムを読んで、なるほどと頷うなずかされた。まことに人類に火を与えたプロメテウスは、それほど甘い神様ではなかったのだ。「想定」ということは、何かにつけて高を括くくることであり、人間ごときの知恵で自然を見くびることであるから、計り知れない自然の力が人間にとって想定外であったのは当然である。何のことはない、自然が本音を吐いて牙を剥むいただけである。
旧約聖書『創世記』によると、神は天地創造の6日目に、自分の姿に似せて人間を創り、地上のすべてのものを彼に従わせると言われた。しかも、人間の祖先であるアダムとイブは、神の禁じた知恵の実を食って、エデンの園を追放されたという。
そうなると人間というのは、あらゆる生き物のなかで最も神に近いものであるとともに、あらゆるものの中で唯一「罪」を負うものであり、これほど矛盾を抱えた生き物もないであろう。問題は人間がみずから罪を犯して得た「知恵」にあり、知恵とはほんらい罪であったのだ。
皮肉なことだが、人間が自己の弱さや孤独、あるいは罪や死という自分の存在の根本に根付いている絶望性を自覚する能力あるゆえにこそ、万物の霊長たりえるのである。
カール・ゼーガン博士の「宇宙カレンダー」は、宇宙の始まりを1月1日とすると、最初の魚が出現したのが12月19日、人間が登場するのは、なんと大晦日おおみそかの午後10時半になるという。ウィリアム・ギルバートはまた、「人間は自然の犯した唯一の誤りだ」と言っているそうだ。
2500年の昔、仏陀ぶっだは『法句経ほっくきょう』のなかで、「人の生を受けるは難し」と人間存在の希少きしょう性を説きつつ、「死すべきものの命あるは有り難し」と、その命の儚はかなさを教えている。然しかり、自己存在の絶望性(死)を自覚しつつ生きることこそ、人間の尊さであるというのが仏陀の教えの基本なのである。
大気圏という温床に保護されて生きてきた人間は、いまや自然破壊どころかサンルームのガラスをぶち割って大気圏の外に進出した。そして科学はそこで初めて静かな「死」の世界に出会ったのである。「生」の延長を願って発展してきた医療においても然り。自分の死をどのように迎えさせるかという末期医療が、いま医療の中心的な課題となっている。
このようにして、われわれの時代に至って、宗教と科学が「死の問題」を共有することになったのは、けっして偶然のことではないであろう。
「想定外」ということについて
自然が示す科学の限界 [下]
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現代科学の発展には、目を見張るものがある。前世紀の歴史家アーノルド・トインビーは二十世紀を、「著しい科学の発展と、世界諸宗教の対話の世紀」と想定したが、一見あい反する見える宗教と科学にも、やはり人間の営みとして本来的に深く通底するものがあるようだ。
そもそも「科学」はキリスト教の熱い信仰から生まれたものであった。神の創造の神秘を知ろうとして、中世の科学者たちは恐る恐る自然物や人体を覗のぞき見ることを始めたのである。彼らが神の創造物である自然に対してさまざまな仕方で問いを掛けると、自然は人間の問い掛けが正しいことを次々と証明してくれた。
こうして人間は、自然についての自らの知恵に自信を持ち、自然の法則を用いて推論と実験を試みるうちに、神を畏れず自らの手で自然に手を出し始めたのである。それが「技術」というものである。だから出発点の異なる科学と技術を、「科学技術」と総称することは間違いである。
ところで、人知によって観みる自然世界に限界があることは言うまでもない。人間が自然について知り尽くすことは不可能である。いなむしろ哲学者ハイデッガーがその著『放下』で述べているように、人間が物を解明しようとして手を出せば出すほど、物はその秘密を隠してしまうのだ。もし物の秘密を知ろうとするならば、人間は物から手を放さなければならない、とハイデッガーは現代科学に忠告しているのである。それが「放下」(ゲラッセンハイト)ということの意味にほかならない。
こうして見ると、この度の大震災に伴う津波が「想定外」であったというのは、あまりにも自然の巨大さを見くびっていたものの言い草ということになるであろう。大自然の神秘について、科学はもっと謙虚でなくてはならないのではないか。
たとえば川に流れる一枚の葉っぱが、どういう経路で流れていくか、あるいは途中で何かに引っ掛かってしまうか、どんな科学者も予測することはできまい。高層ビルの屋上から落とす紙一枚がどこに落ちるかは、誰も知ることはできないであろう。実は人間は、そういう不確かさの中で生きており、それでいいのだ。
科学は実験の罪重ねから得た確率の上に立って、さらなる発展を求めていく。そこに例外というリスクが生じることは言うまでもない。科学の世界にも確率100%ということはないからである。
たとえば、がんに侵されると、死亡率が高いと言われている。しかしこの死亡率は、この自分とは何の関係もない。自分はがんにならないという可能性が残されているからである。これこそ良い意味の想定外ということであるかもしれない。
ここで筆者は、仏陀ぶっだが2500年前に説いた「縁起えんぎ」の教えに、今更ながら新しい感覚を覚える。そう、この世における一切の現象は、ただ「縁によって起こる」という、あの「法界はっかい縁起」の説である。
仏陀によれば、すべての出来事は、ただ縁によって起こり、したがってそれ以外にはあり得ない一事実である。逆に言えば、縁がなければあり得なかった一事実である。したがってこの事実には過去も未来も含まれていない。ただ縁によってのみ起こり得た刹那の生滅としての「一事実」があるという教えである。実に明解な世界の説明と言うべきではないか。
しかし、あらゆることを一瞬のこととしてしまうことは、いわゆる「刹那主義」であって、それだけでは現実世界の説明がつかない。実は縁がはたらくためには、何かの原因があってそれが縁によって結果を生じるという経過もなければならない。このことは逆に、いくら原因があっても、縁がなければ何の結果も生じなかったということになる。そういう意味でこの世界の出来事は、すべて例外を許さない「一真実の世界」という意味を持つであろう。
もう一度科学の世界を振り返ると、そこには原因と結果を結ぶ法則性があるけれども、「縁」という考えが抜けている。つまり科学には「想定外」ということがあってはならないのだ。今回の大震災では、あってはならない「想定外」の出来事が起こってしまったのである。
これを科学の敗北と言うつもりは毛頭ない。ただ、そういう「縁」というものが含まれない科学は、いま大きな限界の前に立たされていることを、今更ながら思い返している次第である。
にしむら・えしん 1933年、滋賀県生まれ。花園大学元学長、現在(財)禅文化研究所長。専攻は禅思想研究。文学博士。著書に『無門関』(岩波文庫)、『碧厳禄の読み方』(大法輪閣)など多数。 |