教行信証と私
加藤 智見 かとう・ちけん 2012年10月13日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
苦悩を共に
仏の「信心」 [上]

 いじめの問題がいよいよ深刻になってきたが、私も少しいじめを受けたことがある。
 寺で生まれた私は、小学校2年のときから父の代理でご門徒宅にお参りに行くようになったが、道々で時々「坊主、坊主、くそ坊主!」などとからかわれ、いじめられた。大抵は我慢したが、一度だけ耐えられなくなって、帰った途端大泣きしたことがあった。
 そのとき父は、「男なら泣くな」と叱ったが、母はちがった。私の手を取り、引き寄せ、涙ぐんだ目でじっと私を見つめ、「辛つらいわねえ、お兄ちゃん。でも仏さまはわかってくださっているのよ」と言った。あとは無言であったが、私は救われた気がした。仏さまと母だけは私の気持ちをわかり、一緒になって悲しんでくれていると感じたからだ。辛い気持ちも、やがて消えていった。
 なぜ母はこう言ったのかを最近よく考えるようになったが、思い当たることがある。


 嫁いできた母は、昭和16年、私より2歳上の長女を生んだ。お産の際の不手際で軽い障害のある子になってしまったが、2年後私が生まれると、とてもかわいがってくれたそうだ。食料不足の時代であったが、ジャガイモなど自分の分まで譲ってくれたという。
 何とか娘の障害を治そうと、母は医師を探し求めて手術をしてもらったが、戦争中のこととて十分な設備もなく失敗、半身不髄になり、やがて死んでしまった。
 そのとき、母の父は母を慰めようと思ったのだろうが、「この子はこんな体だからこれでよかったのかもしれない」と言ったそうだ。しかしこの言葉に母は逆上した。「そんなに冷たい人だったの、お父さんは。この子の気持ちも私の気持ちもわからないで」と泣き叫び、その後2年間絶交してしまった。そのあと母は2人の子を身ごもったが、一人は胎内で、一人は生まれて間もなく死んでしまった。私を除いて3人全員死んでしまったのだ。不幸のどん底に突き落とされた。
 その頃、母の父が母に送った手紙が最近見つかった。その趣旨は「あんな言葉をかけた私を許してくれ。そしてこんなに不幸になっていくおまえを私はどうすることもできない。しかしおまえの目には見えないだろうが、おまえと一緒に泣いてくださっている仏さまがおられることだけは忘れてはいけないよ」といったものだった。
 やがて気を取り戻した母は父と和解し、その後2人の子を生んだ。無事成長し、やっと人並みの幸せを手にしたのだが、こうして修羅場をくぐって仏と出会った母は、人の悲しみがわかり、人と一緒に悲しむことが身についた。いじめられた私の気持ちを察し、涙ぐんでかけてくれた母の言葉はこの辺から生まれたものだろうし、このような母の姿は私の仏教の研究にも生きた影響を与えてくれた。


 私は今年7月、『図説 浄土真宗の教えがわかる! 親鸞と教行信証きょうぎょうしんしょう』という本を出版した。浄土真宗の開祖・親鸞が障害をかけて書いた『教行信証』は非常にむずかしいので、少しでも理解してもらおうと苦労して書いた本である。この『教行信証』の中で彼が一番力をこめて書いたのは「信心」と「念仏」についてであるが、「念仏」については次回触れることとし、今回はこの「信心」に触れてみたい。母は修羅場をくぐってこの「信心」を得ることができたからだ。
 親鸞のいう「信心」(信じる心)とは、一般にいわれる信心ではない。普通は私たちが仏さまを信じようとすることを指すが、親鸞は仏さま(阿弥陀あみだ仏)ご自身が苦しむ私たちを信じ、心配し、一緒に悩み泣きながら「悲しいだろうが大丈夫、必ず救い上げるから安心して身をまかせなさい」と言ってくださるその心に触れたとき、仏さまによって引き起こされる深い喜びの心を信心だと言ったのである。
 死んでしまった3人の子を思って泣き暮らすうちに、自分と一緒に泣いてくださっている仏さまがおられるのだと気づき、母は救われた。この母の生き方を通し、私は信心の意味を知らされたのである。

「念仏」は仏さまの命令  [下]

 前回述べたように、私がいじめを受けたとき母はやさしい言葉をかけてくれたが、父は「男なら泣くな」としか言わなかった。だから当時、父は冷たい人だと感じていた。
 しかし父の生い立ちを考えながらその言葉を振り返ってみると、単なる冷たい言葉ではなかったように最近思えるようになった。その生い立ちは悲惨なものだった。
 父は明治45(1912)年1月、京都に生まれた。東本願寺に勤めていた祖父には妻と男の子3人がいたが、その次男であった。ところが父が2歳のとき下宿の大家さんの妻が結核にかかり、その看病を手伝っていた父の母が感染、やがて長男、三男とともに死亡。
 その後、祖父は再婚するが、父が12歳のときその祖父も結核で亡くなってしまった。父は、継母と腹違いの弟2人とともに残されたのである。生計の道を断たれた4人は愛知県の自坊に戻り実父も実母もいない家庭で育てられることになった。


 継母にとっては、先妻の子より自分の生んだ子のほうがかわいい。反抗する父には厳格をきわめた。言うことをきかないと父は弁当も作ってもらえず、昼食の時間になると、運動場に出て一人ですごすことが多かったという。次第に性格も暗くなり、世の中を屈折して見るようになった。その頃の写真を見ると、やはり孤独で、すねた顔に見える。
 やがて大学に入るが、弟たちが大学に入る頃になると継母に引き戻され、やむなく中退。父を働かせ、実子の学費を出させようとしたのだ。継母の立場に立てばその気持ちもわかるが、父にしてみれば実の両親も兄弟も失い、しかも今度は勉強さえできなくなってしまった。ご門徒宅の仏壇の前でお経をあげながら、やり場のない泣きたくなるような気持ちを仏さまにぶつけていたことだろう。そんなとき、「世の中にはしたくても勉強できない人がいっぱいいる。男だったらそんなことで泣くな」というような声が返ってきたのではないだろうか。
 やがて父は結婚し子どもが生まれるが、先回書いたように、私を除いて立て続けに3人の子どもを失った。実の父母兄弟を失い、今度はわが子3人を失ったわけだ。打ち続く不幸に、父はどのようにして耐えていたのだろうか。
 運命の荒波に翻弄ほんろうされ続け、生きる支えを失いかけた父は、単なる慰めではなく叱咤しった激励するような強い声が欲しかったはずである。ひたすら念仏する父の後ろ姿が、かすかに私の記憶に残っている。
 さらに第二次大戦も末期を迎える頃、腹違いの弟の一人が戦死、もう一人の弟は本人・妻・娘の家族全員が満州の赴任先で結核に観戦、やがて妻が死亡。本人は娘を連れて復員するが、まず娘が死亡、やがて本人も亡くなった。そのときの病んだ顔をおぼえているが、あんなに悲しい顔を私は見たことがなかったし、今もない。皮肉にも最後に残ったのは継母だけだった。
 しかしこの頃には、父は新たに二人の子が生まれ、順調に育った。やっとささやかな幸せを得たのだ。幸せをかみしめるかのように、父はいつも念仏をとなえていた。
 こうして運命の荒波に翻弄された父を生かし続けたのは、ほかでもなく念仏であった。では念仏とは何だろうか。


 親鸞の主著『教行信証きょうぎょうしんしょう』には、「念仏」は仏さまの「勅命である」という表現がある。むずかしい表現だが、まず念仏というのは南無阿弥陀仏なむあみだぶつととなえることであり、これは仏の名前(阿弥陀仏)を呼ぶことである。そしてこの念仏は仏の「勅命」であるというのだ。勅命とは一方的な命令という意味であるが、冷たく強制する命令ではなく、真剣で心のこもった強い命令である。たとえば親は子を思うからこそ、有無を言わせず命令することがある。「そんなことをしているとお前は破滅してしまうぞ」と真っ赤な顔をし涙を浮かべて全身全霊で叱り、命令することがある。仏さまもそうだ。人を思うあまり、ただ念仏せよと全身で命令してくれる。それを親鸞は勅命と表現したのである。
 私の父にはその命令は「さみしくなって泣きたくなったら私の名を呼べ、そうすればおまえの父にも母にもなっておまえと一緒にいる。だからもう泣くな。継母だって悲しいのだ。憎むな。前に進め」などと聞こえたにちがいない。このような声に励まされて父は生きてきたのだと思う。
 「男なら泣くな」という一見冷たそうな言葉の中には、泣いても生きてきた父の思いがこもっていたはずだ。やっと最近そう感じるようになった。

かとう・ちけん 1943年、愛知県西尾市(現一宮市)生まれ。早稲田大大学院博士課程修了。早稲田大・東京大講師を経て、東京工芸大教授。現在、東京工芸大名誉教授、同朋大講師、一宮市光専寺住職。毎月第2土曜日に学道塾(親鸞に学ぶ塾)開催中。著書に『図説 浄土真宗の教えがわかる! 親鸞と教行信証』(青春出版社)など多数。