死者へのまなざし
碑文谷 創 ひもんや・はじめ 2012年9月29日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
両親との別れ
静かな最期 思いさまざま [上]

 年間日本で125万人が死亡している。しかし、それをまとめて論ずることはできない。死とはあくまで身近に体験した死しか語れない。
 先日、小児がんで子どもを失った親の会に参加した。子どもの死は、それはいくら年月を経ても、涙を流さずに語ることはできない痛切なものであり続ける。


 私の両親は、幸いにも高齢になっての死であった。これは当たり前のことではない。母は7人きょうだいで3人は幼少期に死亡し、1人は戦時中にガダルカナルで死亡した。70歳を超えたのは母とすぐ下の弟2人だけである。
 私は戦後生まれの第一期生で、今66歳。同級生のほとんどは既に両親を失っている。父は13年前に死亡した。父は断固として延命治療を拒否していた。医師もそのことを十分に理解して、入院治療はしなかった。
 80歳の後半となっていた父は、たびたび脳硬塞にかかり、自力で大小便をすることすら不可能になっていた。だが頭は最後までしっかりしていた。自分の病状はそれなりに把握していたようで、死ぬ1カ月前の12月には「せいぜい正月までだろう」と自分の余命を語り、正月料理をしっかり味わった後に昏睡こんすい状態に入り、3~4日後静かに息を止めた。
 父は死について特別な感情をもっていなかった。既に親しい友人たちが先立っていたから、むしろこの世に取り残されたような寂しさを感じていたようである。5人きょうだいの長男であった父は、既に3人の弟に先立たれていた。弟たち、先輩はもとより同輩の友人たちほとんどにも先立たれていたため、自分の死をごくごく自然にとらえていた。むしろ死を待望している感もあった。


 母は父の2歳下。父の終末期には既に軽い認知症を患っていた。医師が「今晩が峠」と予告された日、母にはそれを伝えていなかった。だが本能的に異常を察知したのであろう。その晩母は、寝間着に着替えることなく、1晩父のそばに付き添っていた。
 翌朝、父は自宅のいつものベッドの上で静かに息を引き取った。父の死は、私たち子どもにとって納得ずくのものであり、父にとっても希望した自宅での死であった。平均寿命も大きく超えていた。
 平常感覚で父の死を受け止めるだろうと思っていたのだが、死なれてはじめて私の中で激しい欠落感が生じた。感情を自制できなくなり、父が生きていた時の表情の記憶を失っていた。母は表面的には淡々とその死を受け入れているように見えた。


 その母が父の死から13年後の今年死亡した。98歳。数えで計算することが常である享年では百になる。
 認知症といってもすべての記憶をなくしたわけではない。しきりに子どものころ育った郷里東北の母親(私の祖母で62年前に死亡)に会いに行きたがっていた。目の前にいるのが自分の子であるとは認識していないのだが、「親しい人間」という意識はあった。母にとっての子どもはいつまでも小学4年生くらいのままであった。
 晩年に母は、幸いにも特別養護老人ホームへの入居が許された。自宅でもそうであったが、母は子どもに帰ったみたいであった。人の目が自分に向いていないと他人を傷つける言葉を吐いて悪態をつき、大暴れをし、自分を孫よりも若い介護士に抱きしめられると喜び、甘えていた。
 母は内蔵が強く、その生命力は医師、看護師たちを驚かせていた。だが1月にベッドから落ちて腰を骨折。3月には一時危篤状況に陥った。以来数度、危篤を重ねた。特に積極的な治療は施さなかった。点滴しようとしても管をすぐ自分で外してしまう。自然に任せた。
 8月末、母は眠りの中、静かにその生涯を終えた。最後の半年は穏やかになった。まさに「生き切った死」であった。
 私は父の死の時のような感情の乱れはなかった。ただ、その後の数日間の葬儀の過程で、大きく深い疲労感を覚えた。

死に対する偏見
単独死は孤立意味しない [下]

 東北の被災地では、がれきが取り除かれて平地になって、かつての暮らしの跡を見いだすことが困難になっている。高台への移転もまだ展望をもち得ていない地域がほとんどである。
 「復興」が大切で急がれることは確かなことである。だが多くのいのちが失われたこと、それぞれが死者への思いを強く抱いていること、それは心に刻むべきことであると思う。「失われたいのち」を忘れての復興はあり得ない。


 依然として2800余人の方が行方不明である。今回特例措置として家族申述形式での死亡届が認められ、行方不明者の9割異常で死亡届が出され、受理されている。市町村によっては死亡届を受理した人は行方不明者ではなく死亡者にカウントされている。この死亡届、家族にとっては複雑な感情で行われただろう。自分の目で死を確認しないまま、通常であれば医師か警察が行う死の判定を自ら行ったのだからだ。
 よく聞かれるし、震災時にもよく聞かれた言葉に「葬式は区切り」がある。この「区切り」という言葉はどうにも好きになれない言葉の一つである。家族が自分で決意して死を認めて精神的なけじめをつけようとするのはわかる。だが、知人、親戚さらには宗教者までもが、家族に「早く葬式をして区切る」ことを求めたりアドバイスしたりするのはどうなのか。
 あの世でなくとも、この世の法律では死者と生者とは大きく区分けがされている。生きているのか死亡しているのか曖昧なままでは、所得、財産、保険、年金等がすこぶる難しくなる。だから生きて生活していく者にとって死亡届はやむを得ない選択としてあり得る。だが、である。葬式までも強いられる必要はあるのだろうか。
 現地の葬儀社に取材したところ、家族はまだその気にならないのだが、被災地以外に住む親戚から葬式を早く出すよう言われ、困惑する家族が少なからずいたという。
 遺体のない葬式…では太平洋戦争中の外地での戦死者のことが思い起こされる。軍から送られてきた骨箱には石が一つ入れられていた。その石の入った骨箱を抱え、戦地で死んだ弟の葬式を出したことを私の母もずっと嘆いていた。


 道元はすぐには賛成してくれないでしょうね。「実体的な世界が、あるときはこうで、あるときは別のものになる、というような意味での変化は認められない」というでしょう。どんな世界であれ、その時はその時、この時はこの時だよ、と。
 でも、首をかしげて悩んでいるわたしを見て、苦笑しながら「まあ、どうしても時が流れるというなら、きっと未来から過去へだろうね」といってくれそうな気はします。現在はやがて過去になり、そして新しい時が現在になるだろう、と。


 1995年の阪神・淡路大震災で仮設住宅に入居した人が周囲に気づかれることなく死に、その遺体が死後相当経過した後に発見される事例が出て「孤独死」として注目を浴びた。最近では遺体発見が遅れたのは、死者が社会から孤立していた結果の死として「孤立死」と呼ばれることもある。今回の東日本大震災でも既に仮設住居ないで死後相当程度経過して遺体が発見された事例があるとの報道がされている。
 単独世帯に住む人が血縁、地縁、社縁、あるいは友人関係という縁から孤立していたから発見が遅れた「無縁者の死」と決めつけ、死者を人間関係が希薄で孤独、あるいは周囲から孤立していたと一律断ずるのはいかがなものであろうか。
 実際、遺体の発見が遅れた場合、腐敗が進行し、腐敗臭がきつく、住居も相当にクリーニングしないと再度の利用が困難となる。長期間でなく死後数日以内でも、夏や入浴中の死であれば腐敗は進む。
 通常の死であれば、2、3日はけっこうきれいな遺体が多い。だが、少なくとも1割前後の遺体はそうではない。終末期の過剰医療の結果、遺体はより腐敗しやすくなっていて、そのさまから遺族は友人らが遺体と対面することを断る事例は少なくない。
 そもそも死後数日間にあわただしく葬式や火葬が行われるのは、死後間もなく遺体が腐敗を開始するからである。エンバーミング(防腐処置)を施すのでなければ遺体は腐敗するという至極当たり前の事実がセンセーショナルにとらえられてはいないか。


 2011年の国民生活基礎調査では単独世帯は25.2%を占める。現代社会は単独死のリスクを抱えている。だが死後の形状だけでもって第三者が「無縁死」とかの安易な論評をすることで遺のこされた家族の悲痛が増すことになってはいけない。
 死者はものを言わない。しかしその生死には常に固有の物語があると思うべきである。それを知ったがごとく、死者やその家族を論評することは死者の尊厳への不当な介入ではなかろうか。

ひもんや・はじめ 葬送ジャーナリスト。1946年、岩手県生まれ。東京神学大大学院修士課程中退。雑誌「SOGI」編集長。著書に『死に方を忘れた日本人』(大東出版社)『「お葬式」はなぜするの?』(講談社プラスアルファ文庫)ほか多数。