時は流れるのだろうか
山田 史生 やまだ・ふみお 2012年9月15日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「いま・ここ」を生きよ
変化ではなく生成して消滅 [上]

 わたしは生まれも育ちも福井です。福井といえば永平寺。永平寺といえば道元。道元といえば『正法眼蔵しょうほうげんぞう』ということで、これまで何度もチャレンジし、そのたびに挫折してきました。
 『正法眼蔵』はおそろしく難しい。無学な俗人はお呼びじゃない。しょうがないから「正法眼蔵を読む」といった入門書でも読もうとおもい、いくつか買ってみました。それにも歯が立たない。本物には相手にしてもらえず、その解説にも手が届かないとすれば、もうお手上げです。
 そこで『正法眼蔵』を丸ごと読もうという高望みは捨て、そのエッセンスといわれる「現成公案げんじょうこうあん」だけを味わうことにしました。これだって難しいけど、とりあえず短いから、なんとかなるだろう、と。そしてネジリ鉢巻きで読みこんで、「絶望しそうになったら道元を読め! 『正法眼蔵』の「現成公案」だけを熟読する」(光文社新書)を書き、ホッと一息ついていたところに、本欄への執筆をもとめられました。道元について書き残したものがあれば書いてみよ、と。


 書き残したものはないけど、新たに気になっていることはあります。せっかくの機会ですから、今回、「現成公案」における道元の時間論について書き、次回、それを踏まえた小生の妄想について書かせていただきます。
 道元の時間論にかんして、わたしがその眼目だと理解するところを書いてみます。
 薪が燃えて灰になります。これを「薪が灰になる」と考えちゃいけません。薪は薪、灰は灰、それぞれ意味的に断絶しています。まず薪があり、それが灰に「なる」わけじゃありません。ひとの生死もそうです。生は生だし、死は死です。生を生きればいいし、死を死ねばいいのです。「生から死へ」という変化でとらえちゃいけません。「いま」が生成し、消滅するのです。
 子どもは子ども、大人は大人です。時間的には前後があるけど、だからといって子ども大人に「なる」のではありません。子どもは小さい大人ではありません。子どもも大人も、つねに「いま」を生きています。子どもから大人へという変化をとおして変わらないもの、たとえば「自分」といったものを、考えることはない、と道元はいいます。
 過去は「もう」ありません。しかし現在において「想起する」というかたちで過去はあります。未来は「まだ」ありません。しかし現在において「予期する」というかたちで未来はあります。だから現在の「前後」はあります。ただし、あるのは現在の過去、現在の未来であって、客観的な過去や未来ではありません。
 昨日の夕食を想起したり、明日の朝食を予期したりすることは、昨日「食べた」と過去形でいったり、明日「食べよう」と未来形でおもったりというふうに、まさに「いま」にあって、言語的にとらえているのです。「いま・いま」と不断に変化しているのであって、過去というものが現在になり、現在というものが未来になるわけじゃありません。


 要するに、道元にいわせれば「時は流れない」のです。そのつど「いま・ここ」をしっかり生きていればよいのです。ところが、われわれは「時は流れる」とおもっています。しかも、たいていの日本人は、時は過去から流れてきて、やがて未来へと流れて行くというふうにイメージしています。わたしもそうなのですが、あなたはどうでしょう。
 凡夫の悲しさ、「時は流れない」とは、なかなか考えられません。でも、道元の言葉を味わっているうちに、おもいもよらぬ妄想がわいてきました。時は、未来からやって来て、過去へと流れ去るんじゃないか、と。次回、そのことを書きます。

そして新しい今が生まれる
悩み尽きない道元の時間論 [下]

 道元の時間論について復習しておきましょう。
 薪である時は薪だし、灰である時は灰です。薪が灰に「なる」わけじゃありません。そのつど「いま」が生成し、消滅するのです。だから道元によれば、時は流れません。
 さて、わたしの妄想はこうです。
 未来はまだ来ていません。いつしか現在に至り、やがて過去へと去って行きます。まだ無いものがやがてやって来て、いま有るものが無くなって、もう無いものになります。
 わたしは、時は未来から過去へと流れるとおもうのです。時が悲しみを癒してくれるのも、いま有る悲しみが過去へと流れ去るからじゃないでしょうか。


 孔子は川のほとりにたたずんで「流れてゆくよ、昼となく夜となく」といいました。川岸で見ていると、水は上流から下流へと流れます。わたしの感覚だと、上流が未来で、下流が過去です。下流に未来をイメージするのは、なぜか難しいです。
 バスが見えます。まだ来ていませんが、見えています。やがてやって来て、停まり、去って行きます。バスだとそれが自然なのに、どうして時の場合は過去から未来へと流れるとイメージしてしまうのでしょうか?
 昨日の日記はすでに書かれています。明日の日記はまだ書かれていません。日記をもう書いてしまった昨日、現に書いている今日、カレンダーの日付をたどるように、この順で時は流れて行くような感じがします。すでに書いている黒い頁ぺーじから、現に書いている「いま」を経て、まだ書いていない白い頁へと、頁を繰るように時が流れるように感じます。
 この常識的な時間意識を、道元はしりぞけます。「過去の現在」であったものが「現在の現在」になり、やがて「未来の現在」になるのではありません。そのつど現在は永遠なのです。薪が灰になるわけじゃありません。薪は薪、灰は灰、それぞれ独立にそれ自身のあり方を示しているのです。
 そのつど「いま」が生成し、消滅するだけです。われわれは永遠の「いま」を、すなわち不生不滅の「いま」を生きているのです。道元はいいます。生成する「いま」は、さらに生成することはないから「不生」で、消滅する「いま」は、さらに消滅することはないから「不滅」である、と。
 道元の言い分はわかるのですが、わたしは妄想を抑えられません。過去から現在へ、そして未来へという時間の流れをしりぞけるという点では、わたしも道元に同意します。でも、わたしは「まだない」未来から現在が生成し、「すでにない」過去へと消滅するというふうに、常識とは逆方向の時の流れを感じてしまうのです。
 人間、年をとると「過去のひと」になります。年をとるというのは、これまでのあり方が過去へと行ってしまうことなんじゃないでしょうか。
 子どもの時が去り、やがて大人の時が来ます。大人である現在、子どもであった時はとうに過去へと流れ去り、もはや帰ってきません。大人の時もやがて過ぎ去り、死ぬ時が来ます。わたしが死ねば、わたしの存在そのものが過去のものになるでしょう。いいひとだったけどねえ、と。
 やっぱり時は「まだない」時から「もうない」時へと流れるんじゃないでしょうか。子どもの時であれ、大人の時であれ、死ぬ時であれ、そのつどの「いま」は固有のあり方をしていますが、その時々の固有のあり方が未来からやって来て、それを「いま」として生き、それは過去へと流れて行くのです。


 道元はすぐには賛成してくれないでしょうね。「実体的な世界が、あるときはこうで、あるときは別のものになる、というような意味での変化は認められない」というでしょう。どんな世界であれ、その時はその時、この時はこの時だよ、と。
 でも、首をかしげて悩んでいるわたしを見て、苦笑しながら「まあ、どうしても時が流れるというなら、きっと未来から過去へだろうね」といってくれそうな気はします。現在はやがて過去になり、そして新しい時が現在になるだろう、と。

やまだ・ふみお 1959年、福井市生まれ。東北大文学部卒。弘前大教育学部教授。専攻は中国哲学。博士(文学)。著書に『孔子はこう考えた』(ちくまプリマー新書)『門なき門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)『絶望しそうになったら道元を読め!『正法眼蔵』の「現成公案」だけを熟読する』(光文社新書)など。