超高齢化社会の死
片山 文彦 かたやま・ふみひこ 2012年8月4日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
団塊の世代
生涯、競争の連続 [上]
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ピンピンコロリと死にたいから、老人たちは「ポックリ寺」に詣でる。神道は死を穢けがれとしているから、日本人の多くは縁起でもない、と語ることを避ける。しかし、問題は生き方だ。要介護者になってはじめて死が視野に入ってくる。自分の死に対する考え方は年齢と体験によって違ってくる。私の場合、幼児期はまさに「揺りかご」で、小学生になると戦局も厳しくなって、目と耳をふさぎ、防空壕ごうへの避難訓練の経験があり、チラッと死のイメージを持った。大学時代結核を患って二年間の療養生活、あせりにあせりはしたものの、死ぬことはないと思っていた。
末に生まれたこともあってわが家では、27年間不幸がなかったので家での出産、死去の経験がない。戦後のことなので、両親とも病院で死去している。5人の姉は、順に嫁いでいたから、母と二人で父を看みとった。戦後しばらくしての死に方は、こうしたケースが多い。後期高齢者になってはじめて死へ至る時間を考えるようになったし、高齢者の識者の論評にも言外にそのことがうかがえる。
戦前は九割以上が家で生まれ、家で死んでいた。有島武郎は、自分の体験から小説『小さき者へ』で、産婆さんば、医者がやってきて難産だった出産の場面とその緊張感を描いている。お産は自宅から病院、産院へと逆転したのが1960(昭和35年)だった。漱石は書斎を病室にして家族、弟子らに囲まれた臨終の床であった。このように一般の家庭では、子供もたくさんいて、祖父母の死に立ち会うことも多く、生も死も身近だった。
私にとって痛恨の極みは、一人息子を小児がん(バーキット腫瘍)で亡くしたことだ。国立がん研究センターに入院し、病院に預けていたから小説でみるような葛藤は少なかったが、地獄の1年間を体験した。脳死臨調で臓器移植法が議論になった頃、シンポジウムのパネリストによく呼ばれたが、逆縁を経験した親の痛みは黙っていても分かるし、両方の立場が分かるから、極めて不明瞭な発言になっていたのではないかと今にして思う。
それ以前、当時の「ゆきぐに大和総合病院」の黒岩卓夫院長などの呼びかけで、「医療と宗教を考える会」を立ち上げた。医療者の側が、がんの看とりといった問題に悩んでいて、宗教者にそのヒントがあると思ったからだろう。しかし、明治以来、宗教家は死んだ後のことだけで死に至ることにノータッチでいたから、それに自分の死に関わる切迫感もなかったし、死を外側から見ていた節があった。
江戸時代まで多産多死の多死は飢饉ききんと疫病だった。これを救ったのが近代化で、食料増産で飢饉がなくなり、自然科学、特に医学の発達で多くの病気が治り幸せになると誰も信じて疑わなかった。
川端康成が『山の音』で描いた新宿御苑で「あひびきの楽園」の風景とはえらく違って、多産少死の時代の子供が老人になり、今や、どこへ行っても老人ばかり、御苑も普段の日は老人と外国人ばかり。かつて「産めよ、増やせよ」の国策で、食えないから農業移民でブラジルやアメリカに渡った。
戦後のベビーブームで人口爆発、えらいことになると思われたが、工業化とともに金の卵として吸収された。この団塊の世代は、生まれた時からずっと競争の連続で、これまた死ぬときも競争、まさに大津波がやってくる。これに巻き込まれないように逝かねばなるまい。
医療も介護も十分に受けられない孤独死も増えてこよう。人の命をはかりにかけるのはおかしいけれど、戦前は人の命が赤紙一枚の駆るさ、戦後は「地球より重い」とぬかした者もいたが、極端から極端に走って、より不幸な時代になっていくのではないか。
死の準備教育を提唱された上智大学のデーケン先生は、「―にもかかわらず、ユーモアを」と言っていらした。そこで、全国有料老人ホーム協会が主催する「シルバー川柳」の入選作の一句。「居れば邪魔 出かけりゃ事故かと 気をもませ」とあるが、少子化によりこのままだと気をもませる同居人も居なくなる。
延命治療の是非
過剰な治療より自然死を [下]
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近代化とともに科学技術が発展し、おかげで多産少死の時代がきて、人口爆発になった子供たちが長生きして超高齢化社会になった。
「神の粒子」と呼ばれたヒッグス粒子が発見されたとか、素人にはその意味することが理解できかねるが、科学技術の発展は自然界の成り立ちを理解する手だてになり、宗教、信仰を低下させた。しかし、誰も死が避けられず、降りかかる不幸、何が起きるか分からない未来への不安は拭い去れないから、宗教、信仰はなくならない。医学の発達は、高齢者を多量に生みだしたのは確かであるが、不幸をも増大させているのもまた事実であろう。
下鴨神社の神官の息子だった鴨長明の『方丈記』は火事と竜巻、飢饉と地震と災害史のようなものだ。そうした災害が続かなくとも疫病(感染症)と飢饉は常にあり、人口バランスがとれていた。
それは世界どこでも同じで、たとえば中世ヨーロッパでは、1348年のペストの大流行で1億人近い人口が3、4年で3分の1ないし4分の1減ってしまった。人々は神も今までの医療も信じられなくなり集団ヒステリー、パニック状態に陥った。やがて中世に別れをつげ、ルネサンスへとねじまがっていった。
1492年にアメリカ大陸が発見され、スペインが中南米のマヤ文明、アステカ、インカ帝国を滅ぼし、金、銀、財宝のみならず、ジャガイモ、トウモロコシなどの食料をも略奪して、ヨーロッパを救った。それだけ早くヨーロッパに近代化を促した。大航海は、先兵としてスペインが出て、その後大英帝国は巧妙に世論も気にしながら、7つの海の覇者になった。今、ヨーロッパ、特にギリシャ、スペインが苦しんでいるのは、そのつけのようにも思われる。
有吉佐和子の『華岡青洲の妻』の芝居を、先般新派で見る機会があった。主題は嫁と姑しゅうとめの話だが、医療の無力さを告白する場面には身につまされた。青洲が麻酔で手術を初めてやったことになっていて、日本の近代化の先がけだろうが、娘も妹も助けられないという不幸な現実があり、医療の限界は今も同じだ。
がんをはじめ多くの病気も治るようになって、老人が増えて、超高齢化社会になり、長く要介護に陥ることは耐え難い。今までは、5、60歳で、あっという間に死は駆け抜けていったのに。
今は定年後、20年もあって、子育てより長いのだから趣味、仕事、ボランティアなど、生きがいのある生活ならいいが、何もすることがない人々が結構多い。農業が年寄りには最もふさわしいし、多くは元気で感謝、感謝の生活を送っている。
要介護はある日突然やってくる。そのための用意として、人にすすめらえて尊厳死協会に入会したが、医者である中村仁一氏の著書『大往生したけりゃ医療とかかわるな』によると、それだけでは不十分のようだ。救急車で運ばれて回復すればよいが、意識が戻らず、植物状態になってまで生き続ける意味がどれだけあるのか。
人口呼吸器を取り付けたり、水分、栄養補給は、点滴、経鼻チューブ、あるいは、15分ぐらいで簡単に胃ろうを設置して、直接胃に栄養分を送り込む方法があるが、5年はおろか、10年も生き続ける人もいる。老人ならボケがきて骨も曲がり、折らないとお棺に入らない、という。
本人はもちろん、家族にも苦しみがついてまわる。家族からの要請があっても、延命治療を中止すれば、殺人罪まで問われかねないからできない。もちろん、悪用があるかもしれないが、不必要な延命治療の是非を考えねばならない時期がきている。かつて、がん告知の是非が問われたが、今では当たり前になっているように時代は変わるはずだ。食べ物を受けつけないのは、自然死につながることで、積極的治療をしないことも、最善の生き方、死に方だ。
いくら増税しても、過剰医療費と生活保護費の急増は、ザルに水を注ぐようなもの、ますます住みにくくなっていく日本から優秀な若者は逃げるだろう。若い人たちが言うと、「楢山節考」になり反発を招こうが、老人ならよかろうと思うので、述べてきた。
どんなに年を取ろうと、生きがいと自立をはかることで、「お一人様」で生きるすべを知る生き生きしたお年寄りも多い。問題は臨死の段階で余計な治療をせず、自然死の方向にもっていくことが肝要ではないか。
かたやま・ふみひこ 1936年、東京都生まれ。花園神社(東京・新宿)宮司、医学博士。国学院大神道研修別 科、昭和大医学部卒、東京女子医大大学院修了。東京女子医大、立教大、国学院大、各元講師。著書に『日本人のこころ』(新人物往来社)『日本人はなぜ無宗教でいられるのか』(原書房)など多数。 |