『銀河鉄道の夜』の謎
定方 晟 さだかた・あきら 2012年7月21日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
随所に法華経への信仰 [上]

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は謎に満ちた作品である。少年ジョバンニが銀河宇宙を旅する物語であるが、登場人物、出来事、物事などが寓意ぐういを秘めていることは明白であるのに、寓意が何であるかは知られ難いのである。
 賢治が法華経の信者であったことを考えれば、寓意の大半は解明できるのだが、読者や評者の注意は作品の美的側面に集中しがちで、思想的側面に向かうことが少ないために、多くのことが謎のままに残るか、安易な解釈ですまされるのである。


 かつてアニメ『銀河鉄道の夜』が画像の美しさで観客を魅了したことがあるが、原作品が仏教徒のものであることを窺うかがわせる要素は片鱗へんりんすら見られなかった。むしろ、タイタニック号遭難の犠牲者であるクリスチャンの若い家庭教師および幼い姉弟の登場、ハレルヤの声、高く聳そびえる十字架、白い衣を着た人々の列など、キリスト教のイメージが溢あふれていた。当時のカトリック視聴覚協議会がこの映画に最優秀映画賞を与えたのももっともである。
 プラネタリウムでも『銀河鉄道の夜』にちなむ投影が行われている。「夜空に浮かぶ二つの十字架、北十字から南十字までをつなぐ天の川の岸を機関車でたどる」という趣向のものである。昨年の暮れにはNHKテレビで『銀河鉄道の夜』に関する連続放映があったが、『銀河鉄道の夜』のテーマは「絆」であると解説するだけで、キリスト教への言及も仏教への言及もなかった。
 こうした結果はかならずしも嘆くべきものではないかもしれない。なぜなら、賢治自身が『銀河鉄道の夜』から仏教色を除こうとした形跡が窺うかがわれるからである。かれは死ぬまで推敲すいこうをつづけ、ついに自らはこの作品の刊行を見ることがなかった。かれの初期の稿にはブッダを思わせるブルカニロ博士が登場したが、後の稿では削られた。賢治は自分の主張が多くの人に受け入れられるようにと仏教臭を薄めたと考えられる。
 しかし、これが『銀河鉄道の夜』を謎めいたものにする結果となった。これらの謎は賢治の信仰に照らせば解ける性質のものである。謎の多くは賢治研究家によって解明されているが、それが一般読者には周知されていないようなので、その紹介を、わたし自身の解釈を交えて、おこなってみよう。
 ジョバンニが丘に臥していると空中に天気輪てんきりんの柱が現れ、列車がジョバンニの頭上にやってきて停まる。かれは乗車し、彼の銀河鉄道の旅が始まる。この天気輪の柱が何を寓意するかについてさまざまな説が提示された。『法華経』「見宝塔品けんほうとうほん」の塔、後生車、五輪塔、ゴルゴダの丘へ行進の柱、大陽柱、北斗七星、等々。
 この中で「見宝塔品の塔」節が正しいことは疑いない。周知のように『法華経』は霊鷲山りょうじゅせんで仏によって説かれた。仏と聴衆の前に、突如、高さ五百由旬ゆじゅん(一由旬は約7キロ)の七宝の塔が現れ、これを契機に空中の法会ほうえ(虚空会)が始まったのである。空中の法会は「嘱累品ぞくるいほん」において終了する。
 『銀貨鉄道の夜』の丘は霊鷲山に対応しよう。天気輪の柱は宝塔に、旅の展開は仏の説法に対応する。旅の終了はブルカニロ博士が天気輪の柱の蔭かげに消えることによって告げられるが(この部分は初期形にあり、後の稿では省かれた)、これは「嘱累品」に対応する。賢治は『銀河鉄道の夜』を『法華経』の構想に則のっとって作成したのである。


 『銀河鉄道の夜』は思想的にも仏教に合う。ブルカニロ博士はいう。「ほんとうに勉強すれば信仰も科学と同じようになる」。これは仏教の「信」が科学と矛盾しないことをいっている。「この本には紀元前2200年の塵と歴史が書いてある。よくごらん紀元前2200年のころにみんなが考えていた地理と歴史だよ」。これは思考から独立した外界はないという仏教の哲学を示している。「紀元前2200年前」の誤りならば、法華経成立の時期を指したことになろう。

カムパネラは妹では [下]

 銀河鉄道の旅が始まり、列車の乗客となったジョバンニは「おかしな十ばかりの字」が印刷された切符をもっていた。それを見た鳥捕りがいった。「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です」
 この切符が意味するものについてもさまざまな説が提示されたが、「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」という髭文字ひげもじで書かれた国柱会こくちゅうかい発行の十界曼荼羅じっかいまんだらか、「南無妙法蓮華経」の梵語ぼんごが梵字で書かれた島地大等編『漢和対照・妙法蓮華経』の表紙を連想させる。


 「どこでも歩ける」というのは、菩薩ぼさつたちが、自由自在に仏国土の間を往来する様を描く法華経の描写を想起させる。銀河鉄道の乗客は死者に限られるが、ジョバンニが生き身のままで乗車できたのはこの切符のおかげである。ちなみに、切符の意味を告げる鳥捕りは日蓮を暗示していないだろうか。日蓮は魚捕りの子である。
 タイタニック号の遭難者である少女はバルドラの野原の蝎さそりの物語を語った。「バルドラ」はカラコルム山中のバルトロ氷河にヒントを得た名と思われる。「アジアの屋根」にあるこの氷河は銀河世界を描く賢治にとってきわめて魅力あるイメージを提供しえたはずである。賢治が西域について多くの知識を持っていたことはいうまでもない。
 蝎が星座となって闇を照らす話は『法華経』「薬王菩薩本事品やくおうぼさつほんじほん」の、自らに香油を塗って点火し世界を照らしたという薬王菩薩の物語の翻案とされる。賢治がこの物語をクリスチャンの少女に語らせたのは、自分が提示する理想に普遍性を持たせるためであったろうか。
 列車が南十字星駅につくと、少女たちは下車した。ジョバンニと少女の会話。「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいところをこさえなきゃあいけないって僕の先生が言ったよ」「だっておっかさんも行ってらっしゃるし、それに神さまがおっしゃるんだわ」「そんな神さまうそ神さまだい」
 南十字星駅をすぎると、汽車は半分以上すいて、さびしくなった。ジョバンニは「ほんとうのさいわいはいったい何だろう」と問い、暗黒星雲「石炭袋」を見て、「僕、もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」という。賢治がキリスト教に「ほんとうの幸い」はないと考えていることは確かである。賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」といっている。『法華経』はすべての人の成仏を説いている。天がすべての植物に慈雨を注いでそれらをみな成長させるように、仏は妙法を説いてすべての衆生をみな成仏させる。仏を殺そうとした提婆達多だいばだったすらも成仏すると説く。法華経の信者である賢治は、地獄に落ちる人々を尻目に天国に行く気にはなれないのである。


 ブルカニロという名の由来については《ジョルダノ・ブルーノ+カムパネルラ+マサニエロ》合成説、百科事典ブリタニカ説がある。私は、ブッダを意味する古ウイグル語の「ブルカン」ないしモンゴル語の「ブルハン」に由来すると考える。この語はマルコ・ポーロの『東方見聞録』には「ボルカン」として現れる。賢治は日本の東洋学者の著作か講演を通じてこの語を知ったに違いない。ブルカニロはブルカンをイタリア語化したものであろう。ブルカニロ博士の「セロのような声」はブッダの獅子吼ししくを、「黒い大きな帽子」は肉髻にっけいを、「一冊の本」は法華経を意味するだろう。
 ジョバンニの無二の親友カムパネルラのモデルが誰であるかも大きな謎である。臨席にいたカムパネルラが姿を消したときにジョバンニが味わう寂寥感せきりょうかんは痛々しい。モデルの候補としては早世した妹とし子と思想的に賢治から離れ去った友人保阪嘉内とが有力である。モデルは二人いてもよいが、妹のほうが有力である。セロのような声がいう「みんながカムパネルラだ」は「すべての人が妹のようなものだ」を意味するだろう。声は続いて「おまえが会う人はみな何べんもおまえといっしょにりんごを食べたり汽車に乗ったりしたのだ」という。「りんご」への言及は、死に行く妹の顔に賢治が見た「りんごの頬ほほ」(『春と修羅』「無声慟哭どうこく」)の記憶につながるものと考えられないだろうか。

さだかた・あきら 1936年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒、同大印度哲学博士課程終了。文学博士。東海大専任教員などを経て現在、東海大名誉教授。著書に『須弥山と極楽―仏教の宇宙観』『空と無我―仏教の言語観』(講談社現代新書)『インド宇宙論大全』(春秋社)など。