欲を見直す年
柴田 泰山 しばた・たいせん 2012年1月14日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
欲望の鏡として科学技術
豊かさ求めた末の苦難 [上]

 昨年は、多くの人が亡くなり、多くの人が死の恐れを抱いた年でした。除夜の鐘の音を特別な思いで聞かれたことでしょう。
 除夜の鐘には百八つの煩悩を取り除く意味が込められているように人間には無数の煩悩がある。煩悩とは人が迷い苦しむ原因である。今の人には煩悩と言うより、欲望と言った方が胸におさまりやすいかと思う。
 ひとたび何かしらの欲望が心に渦巻くと、そこから欲望が新たなる欲望を呼ぶことになる。まことに困ったことであるが、人が人として生きている間、欲が尽き果てることはない。見るもの、触れるものに欲望が泉のごとく沸き出してくる。しかも欲望には悪の魅力がある。ひとたび心がその欲望に魅入られると、もはや、あらがうことは難しい。そのうち「これがなければ生きていけない」などと、言い訳をしながら、欲を満たす術すべをさらに考え出す始末である。


 釈尊しゃくそんは「人生がなぜこんなに苦しいのか」という一点で悩まれた。そして知恵の力で苦の原因を見極め、消滅させることで覚さとりをひらかれた。覚りをひらかれた直後、釈尊は次のように話されている。
 「世間の人々は、愛着あいちゃくを楽しみ、愛着を好み、愛着を喜んでいる。愛着を楽しみ、愛着を好み、愛着を喜んでいる世間の人々には、私が覚った道理はわかりえない」
 この愛着とは、執着あるいは愛欲とも訳されるもので、生きている間は絶えることがない欲望の対象を貪むさぼる思いである。
 覚りをひらいた釈尊はいったん、真理の説教を躊躇ちゅうちょされた。すると、この世界の主である梵天ぼんてんが姿を現し、釈尊に「どうかその真理を説き示していただきたい。あなたがそうしなければ、この世界は滅びてしまう」と3回懇願した。「梵天勧請かんじょう」の一場面である。
 ようやく釈尊は説教を始める思いになり、菩提樹ぼだいじゅのもとから立ち上がられた。つまり覚りをひらいた直後の釈尊は、欲望や愛欲にまみれることを喜々としている人間のさまをとらえ、説教をためらわれたのだ。
 人が人である以上、決してなくなることがないものが欲望であるならば、釈尊が人間を哀れに思われた理由もこの欲望にほかならない。人はどこまでも欲深く、欲から離れて生きていくことはできない。
 人間の欲望には、「あれが欲しい、これが欲しい」と外に向かって発せられる欲と、「自分だけが生き残れればそれでいい」と内に向かって発せられる欲がある。内に向かう欲はいわば自己保存の本能ともいえる。片や外に向かう欲とは、尽きることがない物欲や名誉欲といった欲望である。
 外に向かう現代人の欲望は科学技術という鏡に映し出されてはいないか。少しでも思うがままの生活を送りたいという私たちの日常的な欲望は、人類の文明や科学技術を大きく進歩させる原動力であったことは間違いない。
 豊かさと至便さを追い求める人類の欲を満たすために科学技術は想像を絶する進歩を遂げ、自然界をもしのぐ力を身につけた。ついには自然界に対し挑発的な行為を繰り返すまでになった。いまや人間に対して危険な存在となり、私たちの日常を脅かしているようにみえる。科学技術は人類の欲望を反映してきたものであることを自問し続けるべきではないだろうか。


 内へ、外へ向かう二つの欲望は表裏一体である。だからこそ「この要望を満たさなければ、今ここで生きていくことはできない」という思いに駆られる。そして、次々にあふれ出る欲望のスパイラルに陥ってゆくのである。
 私たちはいま苦難の中にある。鏡に映し出された自らの欲望をいまこそ見直すべき時なのかもしれない。欲という名の垢あかや塵ちりにまみれた自らの心を洗い流し、欲望から少しでも距離をおき、時代や科学技術に追い立てられることのない穏やかな時も必要ではないか。

懺悔に踏み込む勇気を
罪の酬いの払拭を祈る [下]

 私たちの心は揺れ動き、一点に落ち着くことはない。心は常に周囲の環境に反応し、何かを求め続けている。善い精神状態の時には善行をするが、悪い精神状態の時には悪行をするものである。人の心が善い状態にあることはまれで、往々にして欲望の赴くままに世間や他人を色眼鏡で眺め、心のどこかで悪いことや邪よこしまなことを想像している。想像だけならまだしも、悪い考えのもと、日々、悪行を繰り返している。
 お金を取りあげてみよう。だれしもお金の持つ魔力はよくわかっている。お名根には名前を書く欄もなければ、取扱書もない。手元にあるだけが自分のお金だ。しかし、目の前に現金があると、自分のお金であれ、他人のお金であれ、出来心というか、悪魔のささやきというか、自らの欲望のままにお金を使ったり、持ち出したりと、人を悪の道へと誘う。一度、お金で間違うと、それを隠すためにさらなる悪事を重ねてしまい、ついにはどうにもならなくなる。しかしお金に罪があろうはずはない。ひとえに人の心の弱さ、脆もろさにほかならない。


 使う人の心が悪いのだが、人は欲望の対象が目に入ると、自分を見失い、罪の扉を開いてしまう。欲望に溺れていくということは、知らず知らずに自分の中にある、わがままな思いに、自分自身がのみ込まれていくということである。
 悪行を犯すことは、罪を犯すことである。永遠の過去から今日まで、私たちは数えきれぬ罪を犯し続けてきた。この背中に、どうにもならないほどの罪を背負いながら生き続けている。ふと立ち止まってこれまでの罪を数えてみると、犯してきた罪のあまりの多さと重さに立ち尽くすより他にないのが現実だろう。
 私たちは、これまでの罪を懺悔ざんげしなければ、罪の報いで再び罪を招くこととなる。犯した罪はもう犯すことはないが、犯したことがない罪は今後いつ犯すかもわからない。まだ犯していない罪の方がどれほど恐ろしいことか。これを未然に防ぐためにも懺悔が必要である。
 仏教では懺悔を重視する。特に大乗仏教では仏の前において自らの罪を素直に告白し悔い改めることを強調している。懺悔をする際には、自ら犯した罪をまず認めたうえで懺悔しなければならない。


 しかし人間は、なかなか自らの罪を認めようとしない。あまつさえ他人のせいにしたり、他人にかぶせたりする悪い癖がある。犬や猫も悪いことをするが、他の犬や猫に罪を着せたりはしない。人だけが罪を認めず、罪をごまかそうとする。人が罪を認めることは、大変な痛みを伴うものである。だからこそ、罪を告白し、懺悔するには勇気が要る。
 かくも人は哀かなしい存在である。私たちは、自身の力だけでは懺悔もできない。仏の前に立ち、仏と相対あいたいすることで、はじめて自らの罪深さや愚かさに気付き、本来の自己に立ち戻ることができる。仏の前で、ただ一心にわが身が背負う罪の報いの払拭ふっしょくを祈りつつ、日々に懺悔を新たにしてゆく。罪深き自己の生の実態を、自ら受け止め、自覚し、そのことを少しでも悔い改め、自らを清浄ならしめようとすることが懺悔の内実である。
 昨年、800年大遠忌を迎えた浄土宗の開祖、法然上人は次のような教えを残された。
 「わが身は、永遠の過去から今日まで輪廻りんねを繰り返してきた存在であり、今なお罪を犯し続けている存在であり、生きている限りはさまざまな苦を受けながら生きていく存在である。わが身はこの身のままで釈尊のような覚さとりを得ることなどできない。このような罪深きわが身は、ただ阿弥陀仏あみだぶつの本願をたのみとして、ひたすらに阿弥陀仏の聖なる名前を呼び続けるより他に、この永遠の苦しみから逃れる方法はあり得ないのだ」


 上人は、懺悔すらもできない罪深きわが身は、ただ称名念仏一行のみを実践するばかりであり、阿弥陀仏の大いなる光明によってあらゆる罪の報いが払拭されると説いているのである。上人にとって阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏の名号を称となえることが、この世界を生きていく中で見いだした唯一の生きる勇気だった。
 この息苦しく、生きにくい時代を生きていくために、絶望のふちから立ち上がるために、神、仏の手助けが不可欠である。

しばた・たいせん 1971年、福岡県生まれ。大正大大学院博士課程修了。現在、大正大専任講師、浄土宗総合研究所研究員、三康文化研究所研究員、浄土宗弘善寺(北九州市)副住職。専門は中国浄土教。浄土宗学術賞受賞。主著に『善導教学の研究』。論文多数。