仏教と笑い
渡辺 宝陽 わたなべ・ほうよう 2011年3月19日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「笑いの研究」の潮流
喜怒哀楽のなかに生きる [上]

 長寿社会を迎えて医療・保健の世界でも『笑い』ということが見直されているらしい。『笑い』が健康によろしいことに気付いた医師が、自ら落語を勉強し、さらに本格的な落語家修行をするという記事を読んでびっくりする。
 2007年に六本木の森美術館で「日本美術が笑う」という展覧会が開かれた。知人によると、古代の土偶の笑みから始まって、寒山拾得などの「意味深な笑み」、お伽とぎ草子など「笑いのシーン」、俵屋宗達描く子犬などの「いきものへの視線」、最後に第五部「神仏が笑う~江戸の庶民信仰」という構成である。日本人の心性に深く宿されてきた『笑い』の歴史の諸相に圧倒される。
 文学畑でも「文学と笑いの会」が研究を重ねている。ハーバード大学名誉教授のハワード・ヒベット氏に刺激され、また指導を受けて、活動を行ってきた。成蹊大学名誉教授・羽鳥徹哉氏のお誘いで、筆者も『笑いと創造』第六集(基礎完成編)に拙文を寄せた仏教僧侶で「仏教と笑い」に関心を持つ方もいるとか。キリスト教でも「笑いの神学」を提唱した方があり、高名な東北大学名誉教授・宮高光雄氏にも『キリスト教と笑い』(岩波新書)がある。


 実は仏教寺院での集会、いわゆるお説教の場では『笑い』を通じての共感が自然に行われてきた。葬式に関心が集まっている今日の風評からは想像できないであろうが、仏教信徒が心の底から聴く説法は、形式ばった法話スタイルではなく、なまなましい人生生活の営みの中で見出した信仰譚たんが中心であろう。裃かみしもを脱いで、腸はらわたを曝さらけだしたところで、ほんとうの教えが共有される。
 思い起こすと、遠藤周作氏は狐狸庵こりあん先生のペンネームで諧謔かいぎゃくエッセーを書いたり、周辺の方をだましたりと、諧謔を通しての人間的な付き合いで知られたが、母から継承したキリスト教を日本人としてどのように受け止めるかについて、真剣に考えた作品が多数ある。新聞に連載された「おバカさん」の主人公・ガストンさんを通じて、どれほどバカにされ、騙だまされても屈しない宗教的生き方を遠藤氏は求めつづけた。そこには笑いがある。遠藤氏はおつにすました宗教者像ではなく、喜怒哀楽のなかに生きる、なまなましい人生を生きる宗教者像を求めたのであろう。
 時代をさかのぼって、白隠はくいんさんの画像は「南無地獄大菩薩ぼさつ」と大書した掛け軸を背景にしての恐ろしい表情である。ところが反面では、実に優しい観音像を描いている。蓮池観音図には「慈眼視衆生福寿海無量」と賛し、殊に「壽」を大書している。また他の例では、三十三身に擬なぞらえて蛤蜊はまぐり観音図に「はまぐり身得度者 即現はまぐり身 而為説法」と賛をしたためている。その観音賛を仰ぎ見る人びとは皆一様に笑みをいっぱいにして幸せな顔をしているのである。また「布袋ほていすたすた図」など多くの布袋像を描いてもいる。厳しい禅の修行と、反面、庶民への温かい眼差まなざしに恐れ入る。有名な円空えんくうは全国の山中を訪れて、素晴らしい樹木の内に在する仏を粗削りに彫り出しているし、木喰もくじきの粗削りの木彫に優しい笑みを現していることを思い起こす。


 良寛さんの逸話は、実は「良寛禅師奇話」として親交のあった解良栄重けらよししげ氏がまとめたとのこと。興味深い話があるが、良寛の書は夏目漱石をうならせたという。「天上大風」は子どもにせがまれて『空高く凧たこよ舞え』と書いたもの。「一二三 いろは」は誰にでも解わかる字を書いてと言われて…。桶おけ屋が作り損そこねた蓋ふたを譲り受けて「心月輪」(月のように円い心)という禅の奥義を書いた(『笑いと創造』第六集=高橋玲司「良寛の笑い」による)。実に当意即妙の導きと感嘆するばかりである。
 ふり返って、制度化があまり進みすぎると、その反動が起きる。一元化の潮流に溺おぼれることなく、人生の喜怒哀楽を大切にしながら、仏教の真実に迫りたいと思う。

やさしい微笑・厳しい笑み
原点に究極の悦び 永遠の仏道成就を期す [下]

 七万余の仏教寺院が六千カ寺に減少か?という警告もあれば、NHKテレビ(クローズアップ現代)で「お墓に異変!寺離れをとめろ」が放映されるなど、日本社会の地動的大変化を背景に、仏教の再認識が論じられている。また、そうしたなかでの仏教ブームは、女性の「仏像の微笑」への憧憬しょうけいに支えられている点もあるのであろうか。
 歴史をたどれば、聖武天皇・光明皇后の発願によって奈良の大仏が造立開眼され、その口もとに漂う微笑は日本文化に多大な影響を与えたことであろう。さらにそれらは平安仏教に連続することとなる。しかもそうした大寺院は日本の文化伝統継承の象徴として認識されている。
 しかし私たちが日常生活の中で接するのは、むしろ鎌倉新仏教や平安仏教が鎌倉期以降に新たな展開を見せた宗派仏教の延長上にあるであろう。前述(3月19日掲載)の白隠はくいんさんや良寛さんが示す「笑い」、円空さんや木喰もくじきさんの粗削りの彫像に秘められる「微笑」に寄せられる人気もその外縁にあろう。


 日本仏教は各宗祖の清冽せいれつな信仰世界が後継者によって展開するが、やがて再び宗祖の清冽な信仰世界への厳密な回帰に転じることとなる。
 鎌倉新仏教の宗祖方は、律令制に基づく奈良時代の国家仏教から、個人の救済という課題に沈潜していった。法然上人・親鸞聖人・道元禅師・日蓮聖人らの教えは、民衆に広く深く風呂舞った。それ以前の伝教大師・弘法大師の平安仏教も、新たな装いを伴って民衆に伝えられていった。そうした動向に沿って、説教の展開が行われ、中世に澄憲ちょうけん・聖覚せいかく父子が創始した安居院あぐい流の華麗な説法が各宗派に影響を与えた。際だって伝えられるのは本願寺の「節談ふしだん説教」である。また日蓮宗の「高座こうざ説教」なども伝えられる。
 明治維新と共に西欧哲学や精神文化が流入するのに伴い、教理思想の近代化の先端に立った本願寺が説談説教を禁止した時期があった。が、再びその見直しの気運もあるようで、昨年の築地本願寺での「説談研究会」には多くの門徒が参加した。これら説教のスタイルは、教義の内容を日常に即して巧みに編成し、人情の機微に涙を共にし笑いを伴って、一般信徒に興味深く示される。
 日蓮宗の高座説教では、「日蓮聖人御一代記」が中心である。『立正安国論』奏進後、相次いで四大法難を受けた日蓮(1222~82年)の最後の法難が龍口りゅうこう法難であった。文永八(1271)年9月12日、粗末な草庵そうあんを甲冑かっちゅうに身を固めた鎌倉幕府武士団が日蓮とその門下を捕縛し、日蓮を裸馬に乗せて江ノ島の対岸での処刑に向かう。急の報しらせを聞いて信徒が駆けつけるなか、日蓮は法華経に命を捧ささげる覚悟を語る。格別に熱情家の四条金吾は馬の口に取り付き、刑場まで付き従い「これまでです。お供をして私も死を選びます」と泣き崩れて誓うのである。だが日蓮は教訓する。「不覚の殿原とのはらかな。これほどの悦よろこびを笑えぞかし。いかに約束を違えられるぞ」と。そこに言う『笑い』は、死に直面した究極の世界からの教訓である。命を法華経に託して永遠の仏道成就を期す究極の悦びである。


 歴史をさかのぼると、ある時、お釈迦様が一本の花を手にとって示した。弟子たちは意味が解わからずただ黙るのみであった。が、迦葉かしょう尊者だけがその意味を理解してニコリと微笑ほほえんだ。この「拈華微笑ねんげみしょう」は、言語を超えた仏道上の対話である。真宗大谷派の近代の巨匠・曽我量深りょうじん師は「信に死し、願に生きよ」と言われたという。仏教の究極に迫るところである。
 私たちが出会う『笑い』は多様であると、しみじみ思う。「説教」の場での『笑い』は人情の機微に即して語られる。しかしその原点となる高僧の涙も笑いも、高い『おさとり』の境地からの深い意味が込められている。
 今、団塊の世代や青壮年を含むあらゆる年齢層の方々が、仏教講座を受講するなど仏道を求める心を盛んにしている。新たな仏教再生の可能性を確信するところである。

わたなべ・ほうよう 1933年、東京都生まれ。立正大大学院博士課程修了。同大教授、同大学長。現在、同大名誉教授。東京都足立区・法立寺前住職。著書に『法華経・久遠の救い』『ブッダ永遠のいのちを説く』(NHK出版)『われら仏の子』(中央公論新社)など。