法然の「おおらかさ」
阿満 利麿 あま・としまろ 2011年2月19日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
専修念仏 説き続け
原理に忠実、ゆえに寛容 [上]

 法然に、ある人が「酒を飲むのは罪になるだろうか」とたずねたところ、法然は「飲まないにこしたことはないが、浮き世の習い」と答えている。質問した人は、よほど酒好きであったのであろうか。法然の教えに魅力を感じるが、好きな酒を断てといわれる不安があったのではないか。だが、質問してみて、心配はふっとんだ。今まで通りでいいのだ。喜んで念仏してみよう、と思ったのであろう。
 これは一例にしかすぎないが、法然に接した人々は、法然の教えを受け容れても、今までの暮らしを一変させる必要がないことに大いに安心した。法然の教えには、およそ苦行というものがない。大切なことは念仏をするということだけなのだ。念仏以外は、今まで通りでもよい。ここに人々は、法然の教えにおおらかさを感じとったのではないだろうか。いや、法然その人に、心から自分のすべてを託せる安心感をもったのであろう。


 ところで、親鸞が法然から模写を許されたという、法然の肖像画が伝わっている。それを見ると、草履ぞうりは脱ぎっぱなしで、顔には無精ひげがのびている。とくに身だしなみを整えたとも見受けられない。眼もやや下向きで、なにかを鋭く主張しているというよりも、じっと相手のいうことを聞いているかのようである。また、肖像画の上部に書きつけられている直筆の文字にも、ダブって記されている箇所があり、また脱字もある。
 この肖像画は、法然の専修せんじゅ念仏の正統な継承者であることを示す、いわば免許皆伝の証拠のようなものだといわれているが、それにしては、なんとも、飾り気のない、おおらかな印象を与える。
 それに比べると、親鸞が門弟に図画を許した肖像画は、親鸞の謹厳実直ぶりがよくあらわれている。草履はきちんと揃そろえられている。また、日ごろは少し口元から歯が見えていたのであろうか、その歯を見せまいと、唇をとがらせて、あらたまった風である。首には弟子からの贈り物である襟巻えりまきが着用されている。草履のそばには杖つえと火桶ひおけも置かれているが、それも贈り物であるらしい。贈り物を並べてみせるのも、律儀りちぎさのあらわれであろうか。その上、肖像の上下に記された、親鸞直筆の漢文は、一点一画もゆるがせにしない厳格さに満ちている。
 私は、二人の肖像画を比べて、あらためて、創始者と伝承者とのちがいを強く感じる。つまり、法然は新しい仏教の創始者として、専修念仏の旗をうち振ることに全エネルギーを注いだのであり、どこまでも、専修念仏の大筋を説き続けたのである。
 もともと、法然は細部にこだわらない、おおらかな性格の持ち主であったのかもしれない。だが、そのおおらかさは、教えを広めるなかで、鍛えられていったものではなかっただろうか。
 一方、新しい仏教が広まるにつれて生まれてくる、異論や反論に対して、専修念仏こそが仏教の正統であることを論証することもまた必要となる。その任を受け持ったのが親鸞であった。そして、親鸞の厳格にして意志的な資質は、そうした論証にうってつけであったのだ。
 両者の関係については、詳しくは新刊の拙著『親鸞』(ちくま新書)にゆずるが、わたしは、法然のおおらかさ、包容力が、法然その人の性格によるというよりも、専修念仏そのものの特質に根拠があるように思われる。


 いうまでもなく、法然のおおらかさは、けっして八方美人的な無原則なおおらかさではない。おおらかで寛容でありうるためには原理原則が明確でなければならない。法然においては、それこそが阿弥陀あみだ仏の本願という救済原理なのである。その原理に中実であったからこそ、おおらかな布教が可能なのであった。
 今年は、法然没後八百年という、記念の年だそうだ。この際、法然のおおらかさ、包容力を、たんに法然の個人的気質に帰するのではなく、それをもたらすことができた、専修念仏の基本原理にたちかえって考えてみるのも、意味のあることではないか。

念仏が慈悲心を蓄積 [下]

 ある人が法然に、「念仏する際には口を洗わなくてもよいのか」と質問をした。口を洗うとは、ケガレを払って清浄にする、ということであろう。神仏と対面するには、まずわが身のケガレを払うことが習わしとなっていたのである。ところが、法然の答えは、「その必要はない」であった。
 一方、法然は別のところでは、念仏するに能って、花や香を用意し、わが身を浄きよめるように、と説いている。
 このように、相手によって正反対のことを教えている例は、法然の語録には少なくない。だが、よく見てみると、法然は、いつも、相手にとって一番念仏しやすい方法を選ぼうと苦心していることが分かる。口を洗わなくともよいといっている相手は、おそらく、労働に追われている人かもしれないし、怠け者なのかもしれない。そうした人に対して、わが身を清浄にととのえて念仏せよと教えるならば、ついに念仏そのものを放棄するに違いない。一番大事なことは、念仏することなのであって、身を浄めることではないのだ。
 一方、厳格に精進潔斎しょうじんけっさいをするようにすすめる相手は、そのことによって、心が引き締まり、念仏の持続が一段とすすみやすいという人なのであろう。このように、法然においては、ひたすら念仏をするという一点だけが求められ、相手の生き方の是非を問うことはない。そこに、人々が寛容さやおおらかさを感じたのであろう。


 だが、ここであらためて考えてみる必要がある。というのは、法然の念仏に対する教えには妥協がないからだ。ひたすら念仏せよ、他の修行と兼ねることはあってはならないときびしく教えている。そのため、同時代の知識人たちは法然を「偏執」な人物とみなしていたほどだ。「偏執」とは、一事にこだわる、片意地で融通の利かないこと。
 では、どうしてこのような「偏執」な人物が、多くの人々に寛容でおおらかだという印象を与えてきたのであろうか。それは、ひとえに法然の人間観の深さにあるといってよいだろう。
 つまり、法然においては、人は、意識するとしないにかかわらず、数えきれないほどの条件に縛しばられて生きているのであり、しかも、その条件の網は、それぞれ、人によって異なるものなのである。
 法然が阿弥陀あみだ仏の本願という救済原理を見出みいだしたのは、このような無数の条件に縛られて、それから自由になるすべをもたないという痛切な思いにいたったからだ。もし、思いどおりに自分の人生を切り開くことができると考えるならば、阿弥陀仏は必要とされない。あくまでも、自己の限界、不自由、無力の自覚が専修せんじゅ念仏の選択には不可欠なのである。
 私を縛っている無数の条件から私を解放してくれるのは、阿弥陀仏しかない、と納得できてはじめて、ひたむきに念仏するようになる。それがほかの人には「偏執」とも映るのであろう。
 だが、そのようなひたむきさは、自己の限界を自覚した本人に限ることであり、そうした自覚がない人には、いかに専修念仏の教えが優れていると説いても、馬耳東風でしかない。できることは、機が熟するのを待つ、ということだけであろう。それが、人々に寛容と映ったのであろう。


 多くの宗教は、待つということをしない。ある人は、昨今、世界をゆるがしている宗教的原理主義者を定義して、「待てない人々」とよんだことがあるが、法然は、阿弥陀仏の本願という救済原理を全面に押し出しながら、待つことができる宗教家なのである。
 機が熟するまで「待つ」というと、いかにも消極的で、アキラメ主義のように映るかもしれないが、そうではない。「待つ」ことができるということは、相手に対する深い思いやりがある、ということである。もっといえば、ここでいう「待つ」とは、常識がいう思いやりというよりは、慈悲という宗教心のあらわれといったほうがよい。常識は自己中心を免れないだけに、「待つ」といっても限界があり、本当に相手の立場に寄り添うことは難しい。
 「偏執」の人・法然が、待つことができる人であったのは、慈悲のシンボルである念仏のおかげである。念仏は、私の行為であるが、同時に阿弥陀仏の行為なのである。私のなかで阿弥陀仏がはたらいているすがたが称名しょうみょうにほかならない。称名は、わたしたちの心底に阿弥陀仏の慈悲心を蓄えてくれる。人々が法然に見出したおおらかさや寛容、安らぎは、念仏によって蓄積された慈悲心のあらわれにほかならなかったように、わたしには思われる。

あま・としまろ 1939年、京都市生まれ。京大教育学部卒、NHKディレクターを経て明治学院大教授。現在、同大名誉教授。著書に『親鸞』『日本人はなぜ無宗教なのか』『仏教と日本人』(ちくま新書)『親鸞からの手紙』(ちくま学芸文庫)など。