じぶんが凶器であること
鷲田 清一 大阪大学学長 2011年2月16日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
想像力の不能
暴力の火床

 まさに「藪やぶから棒」であった。
 夜の歩道でのこと。いきなりどんという衝撃が体を走った。自転車がぶつかってきたのだ。よろけたわたしをちらっと振り返った運転者のその腕を掴つかむ間もなく、かれは無表情のまま去っていった。そのときはなんともなかったが、翌日から膝あたりの疼うずきが激しくなった。
 夜の歩道はまるで無法地帯である。大方の自転車はライトなしで走っている。そう、走る凶器。車道もまた無法地帯である。並走している自家用車のドライバーがケータイで通話し、メールを打つ姿が窓越しに見え、背筋に冷気が走る。
 違反だ、とは言うまい。してよいこととしてはいけないことの区別がつかなくなっている、とも言うまい。さらに、法的には違反だがしなくてはならないことがあるとも、法的には無違反だがしてはいけないことがあるとも言うまい。それ以前に、じぶんにできることとできないこととの境が見えなくなっていることが怖い。じぶんの存在が、じぶんでも制御不能な凶器でありうること、そのことに気づかないまま現になにかをしてしまっていること。そのことに意識が及ばないということが怖い。わたしにぶつかったあとの運転者の無表情はそのことを物語っている。


 今日の技術社会で、ひとびとはじぶんでもコントロールできないさまざまの強力を身につけている。一つまちがえば他人のいのちを奪うことになる。そんな暴力の可能性を内に潜めている。運転ミスはその一つの例にすぎない。
 ボタンを押すというたった一つの操作で、おびただしいひとびとが爆撃される。その惨劇のありようはよほど想像力をはたらかせないと見えてこない。ネットでの小さなつぶやきが一気に膨張し、その強力が一つのいのちを抹消し、葬り去ってしまうこともある。不用意に発せられた政治家の一言が、地べたで長年にわたり辛抱に辛抱を重ね積み上げてきた努力を一瞬で壊してしまうことも…。ひとはみずからの存在が、みずからは制御不能な力を宿している事実、そしてみずからのイマジネーションをはるかに超える凶器にもなりうるという事実に、もっと怖おそれをなすべきだ。
 できることとできないことの境が不分明になってきているということは、責任をとりうる範囲が体感の閾いきを超えているということでもある。


 たとえば出産の手助け、排泄はいせつ物の処理、病人の看病、遺体の清拭せいしきといった、いのちの世話のもっとも基礎的な過程を、わたしたちが家庭の外にある機関やシステムにそっくり依託するようになって久しい。みずから手を下さずとも、プロの組織が代行してくれる。かつてひとは、じぶんではどうしようもない、じぶんたちの存在の条件に直面し、ある暴力的な措置をやむをえないこととしてとることが少なからずあった。そのとき、咎とがめとか責め、すまなさや疾やましさの感覚が、ひとの体をつらぬいた。「倫理」や「掟おきて」とはおそらくそのようなものであった。が、いまは、そうした措置が社会のあるシステムに依託されるようになり、ひとびとはそういう制御不能な生存の条件に直面することを免除されて、体感でその制御不能なものを感じないですむようになっている。そしてそれに逆比例するかたちで、何ごともじぶんの思い通りになるという感覚だけが肥大してゆく。しかもそのことに本人は気づいていない…。
 「倫理」が体感を超えているという事実にわたしたちの想像力が追いつかないという、そのことじたいが壮絶な暴力の火床となる、そんな時代にわたしたちは生きている。