法然・親鸞の仏教と現代
梶田 真章 かじた・しんしょう 2011年2月5日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
自力と他力
人間は全て凡夫・愚者 [上]

 1167年、平清盛が太政大臣となり平家の絶頂期を迎えるが、18年後の1185年、清盛の三男の宗盛は壇ノ浦の戦に敗れて処刑され、平家の時代が終わる。1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開くが27年後の1219年、頼朝の次男の実朝は甥おいの公暁に鶴岡八幡宮で暗殺されて源氏の嫡流が絶え、北条氏の世となる。「驕おごる平家は久しからず」といわれるが、「驕る源氏もまた久しからず」。この激動の時代に法然と親鸞の師弟は生き、他力本願念仏を広めていったのである。
 美作みまさかの国(現在の岡山県)の地方豪族の家に生まれた法然は、比叡山延暦寺の僧となるが、自力の修行による成仏を断念し、「自身を含め、いかなる人間でも仏に成れる道はないものか」と二十代半ばから比叡山西塔黒谷の経蔵に籠こもる。二十年近くかかって七世紀の中国の僧、善導の著作中の「本願念仏」の教えに出合い、これこそ末法の世(自力修行しても悟ることができない時代)に生きる人間が仏になるのに相応ふさわしい教えだと感動した法然は1175年、四十三歳の時に比叡山を下りて浄土宗を開く。それまでの仏教では仏に成るためには戒を持ち、経を唱え、坐禅をし、山を駆け巡るなど、自力であらゆる修行を実践しなければならなかった。比叡山の僧、源信の「往生要集」に親しんだ貴族たちは、仏像を造り、平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂などを建て、心に浄土や阿弥陀あみだ仏を瞑想めいそうするという自力修行としての観念の念仏によって極楽へ往き生まれることを願っていたのである。


 法然は、「阿弥陀仏は平等に一切の生きとし生ける者を成仏させようとの慈悲の心から本願を立てて極楽を構えられたのだから、寺院の建立や難しい修行の実践が極楽往生の条件ではなく、本願を信じて『南無阿弥陀仏』(限りない命の、真理に目覚めた存在に任せきる)と唱えれば必ず往生できる、阿弥陀仏が大昔に極楽を建立したときに全ての生き物に宛てて招待状を発送済みだから、招待状のお返事を出しさえすれば(『南無阿弥陀仏』と唱えればよい)」と説いた。それまでは人間は聖人と凡夫の区別があるとされてきたが、人間は全て仏と比べれば凡夫というしかない、その凡夫を憐あわれんで阿弥陀仏は極楽で待っていてくださるのだと言い切ったのである。
 この革命的な教えには、自力修行によって成仏を目指している比叡山や奈良の僧たちから当然、大きな反発が起こる。しかし、法然は自力修行の僧を否定した訳ではない。自分は自力による成仏を断念したから他力信心による往生成仏を選択しただけのことであり、僧は自身が信じる仏の道を歩めばよい。自身の信心には執着するが、他者の信心には寛容であることが法然仏教の尽きない魅力である。


 現代日本では、私ども僧が長らく説法をさぼってきた所為で「他力本願」が他人の力を宛てにしてこの世を暮らすという意味で使われることが多い。僧として誠に申し訳ないことである。「他力」は他人の力ではなく阿弥陀仏の本願の力という意味だから、誤解ばかり受けている「他力」は、「仏力」と言い換えた方がよいかもしれない。
 800年前の日本人は仏教徒であり、善人か悪人かの基準は不殺生戒などの戒めが守れるかどうかであった。「戒行において一戒をも持てず」が法然・親鸞の凡夫・愚か者・悪人の自覚であった。現代日本意おける善人か悪人かの基準は法律を破ったかどうかであるから、殆ほとんどの日本人は自分が善人である、少なくとも悪人ではないと思っている。
 自分は悪人だから自分に何が起こっても「自業自得」だというのが800年前の謙虚な日本人であったが、自分は善人なのにどうしてこんな酷ひどい目に遭うのかというのが現代の傲慢ごうまんな日本人である。この世は不条理であり、自分の常識では納得できないことと出逢であわねばならないからこそ神仏や極楽を信じる宗教が必要とされてきたということを僧として改めて説いてゆかねばならないと思っている。合掌

愚者の自覚で
連帯感の再構築を [下]

 1201年、「修行しても煩悩を抑制できない我が身は地獄へ往くしかない」と比叡山で苦しんでいた29歳の親鸞は山を下り、「極楽往生には専ら『南無阿弥陀なむあみだ仏』と唱えればよい」と説く69歳の法然の弟子となる。
 親鸞は、法然の主著である『選択せんちゃく本願念仏集』の書写を許され(許されたのは数人)有力な弟子の一人となるが、1206年に京都東山の鹿ケ谷にあった法然の弟子の安楽・住蓮じゅうれんの草庵そうあんで後鳥羽上皇が寵愛ちょうあいしていた松虫・鈴虫が出家し、上皇の逆鱗げきりんに触れるという事件が起こり、翌年、安楽・住蓮は死罪、法然は讃岐に、親鸞は越後に流されたため、親鸞は35歳までの五年余りの間だけ、法然の傍で教えを受けたことになる。
 平安時代には空海の教えを受けた嵯峨天皇が818年に出した死刑停止の宣旨により810年の「平城太上へいぜいだいじょう天皇の変(薬子くすこの変)」に際し薬子の兄の藤原仲成が死刑になってから1156年の「保元の乱」の折に平忠正や源為義が斬首されるまで346年も公的な死刑が執行されず、これは近代以前の世界に例のない事実なのだが、僧が死罪にされるほど上皇の怒りは激しかったのである。1200年、鎌倉幕府によって既に専修念仏は禁止されていた。万人の平等(全ての人間は凡夫である)を説く法然の仏教は為政者にとって受け入れ難いものであったと思われる。


 親鸞は越後に流された後、暫しばらくして関東に移り、63歳の頃に京都に戻って晩年は著述活動と関東の門弟との間の手紙のやりとりなどで過ごし、90歳で入寂する。現存する親鸞の手紙は80歳代に書かれたものが殆ほとんどであるが手紙には「浄土宗の人は愚者になって往生する」などの法然の言葉が度々登場する。また、親鸞の主著である『教行信証して日本に興し、阿弥陀仏が選択された本願をこの悪世に広めた」と法然を讃たたえている。親鸞が生涯に亘わたって法然の教えを伝えようと努めたことがよく分かる。
 日本史の教科書では法然が開いた浄土宗と親鸞が開いた浄土真宗があると教えられるが、親鸞がいう真宗というのは法然が開いた浄土宗のことであり、自身が浄土宗と異なる真宗を開いたという意味ではない。また現在の浄土宗はもともと法然の弟子の弁長を派祖とする浄土宗鎮西派と呼ばれる一派にすぎない。現在の浄土宗と真宗は共にもともと法然の浄土宗の一部なのに、法然・親鸞の仏教を一体的に説かずに法然と親鸞の違いを強調しているのは誠に残念である。
 『歎異抄』の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや(善人でさえも往生を果たすのだ、ましてや、悪人が往生を果たすことはいうまでもない)」も親鸞独自の言葉ではない。これは法然から親鸞へ、親鸞から唯円へと伝えられた人間観を端的に示すもので、他人事として、あの悪人こそが往生しやすいと言っている訳ではなく、この文の続きを読むと「阿弥陀仏の根本の願いは私ども悪人を成仏させる点にあるのだから、他力をたのむ悪人こそが正真正銘、浄土に生まれて必ず仏となる種の持ち主なのである」と書かれている。つまり、自身を悪人、自己中心的な愚か者と自覚した人こそが、他力(阿弥陀仏)を頼み、往生成仏する人だという意味なのである。


 仏教では、愛は地球を救わない。自己愛、家族愛、愛国心が他者や隣人との争い、他国との戦争の原因である。愛は喜びをもたらす、生きてゆく原動力であると共に、苦や悲しみに身を置く種となる。近年の日本では家族愛だけを大切にしすぎてきたことが、地域住民のつながりを壊し、最後の頼りの家族に理解してもらえず、仏や死別した肉親に浄土から拝まれている自分であることが信じられないので、孤立感を持ち、絶望して自暴自棄になる方が多いという現実を生み出していると思う。
 法然・親鸞は、生涯、人間は自己中心性から逃れることができないが、自身が自己中であることをよく自覚して生きることが大切だと説いた。専修念仏の僧が凡夫人間観と阿弥陀仏の慈悲を説き続け、「俺も自己中な阿呆あほうやけど、お前も自己中な阿呆やな」という上方漫才に示される愚か者同士の共感を広げ、凡夫が互いに笑い合い、時に不条理と出合わねばならないことを悲しみ合いながら、殺された家族も阿弥陀仏の浄土で菩薩ぼさつや仏となっておられることを御遺族が信じていただければ死刑のない日本に戻れるのではないかと夢見ている。合掌

かじた・しんしょう 京都・鹿ケ谷の法然院貫主。1956年、京都市生まれ。大阪外国語大ドイツ語科卒。きょうとNPOセンター副理事長。著書に「法然院」(淡交社)「ありのまま~ていねいに暮らす、楽に生きる~」(リトルモア)など。