被災者との隔たりを知る
鷲田 清一 哲学者・大谷大学教授 2011年12月7日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
相づちを打つこと、打たないこと

 「がんばれ」「がんばってください」
 そんな呼びかけが、震災の直後、全国から湧き起こった。情報回路がいたるところで寸断されたなかで、被災地外の人たちには災害の仔細しさいが知れず、被災地どうしでもそれが分からない状態で、それでも声を、と送った言葉がこれであった。
 が、側面から、背後から、被災地を激励しようというこの言葉は、逆境のなかで挫くじけてなるものかとみずからを叱咤しったしている人びとを後押しする言葉になりえても、時とともにいよいよ厚く重くのしかかる困難に、息も絶え絶えとなって、立っているだけで精いっぱいといった状況のなかにいる人にはむしろ過酷なものとなる。


 「もう十分頑張りました」「これ以上何をがんばったらいいんですか?」
 これから先可能なこと、というよりは不可能なことが、一つ一つ浮き彫りになってきて、おそらく可能なことすらもすり切れかかった糸のようにいよいよ細くなり、失ったものの大きさも測りかね、かつ納得しきれず、気持ちがまだ乾かぬやけどの痕のように爛ただれたまま、他人のそれとの差異もいやでも目につくようになって、もう眼を伏せうずくまっているほかないと思いさだめる…。そんな境地へと追いつめられたとき、だれかに「お気持ち、よく分かります」などと相づちを打たれたら、「そんなにかんたんに分かられてたまるか」と、吐きだすように低い声で返すに違いない。
 「心のケア、お断り」
 一時期、そんな貼り紙をしている避難所があったと、知人から聞いた。
 16年前、神戸の震災のとき、聴くことのむずかしさを多くの人が思い知った。言葉をさえぎって励ますこと、なかでもじぶんの体験を引き合いに出して励ますことが、相手に、ようやっと搾りだした言葉を逆に呑み込ませてしまうこと、このことにカウンセリングの専門家たちは注意を促し、「ひたすら聴くこと」の大切さを説いた。
 が、ひたすら聴くというのは、その場で相づちを打つことではない。「分かる」というのは、おそらくはその字のとおり、「分かたれる」ということであって、話しているうちに気持ちが一つになる、同じになるというよりも、むしろ逆に、一つの言葉に込められたものの意味や感触がそれぞれに異なるということ、つまり、相手との差異が、隔たりがいよいよ細かく見えてくるということ、そのことを思い知らされるということなのだろう。


 阪神・淡路大震災のさなか精神科救急にあたり、その後も兵庫県こころのケアセンターを拠点に「傷ついた心の回復」に尽くしてきた加藤寛の、ノンフィクションライター・最相葉月による聴き取り『心のケア―阪神・淡路大震災から東北へ』(講談社現代新書)のなかで、加藤はケアにあたる者の心得として、「それ以上傷つけない」ことをまっ先にあげている。かんたんに相づちを打たないこと、わかったつもりにならないこと。「何でもおっしゃっていいですよ」という言葉が、ときに相手の心に鎮めがたい氾濫を引き起こしかねないこと、あるいは、けっして相手に「被災者役割」を押しつけないこと。よくよく心すべきことだとおもう。
 分かるというのは、ここにいるこの他者の心持ちを知りつくせないということを思い知ることなのだろう。そういう限界を知ってなお、という支援グループの来訪以外はご免こうむりたいという気持ちが、先の貼り紙には浮き出ていたのだろう。