暮れゆく災害の年
多川 俊映 たがわ・しゅんえい 2011年12月17日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
自然の中の人間
生き方を考え直す時 [上]

 将来いつの日か、平成23(2011)年という年をふり返れば、おそらく誰もが「あれは災害の年だった」と回想するだろう。その年が今まさに暮れようとしている。印象深い年の瀬を迎え、一、ニ改めて考えてみたいと思う。
 一つはやはり、私たちがその中で暮らす「自然」についてである。昨今、たとえば地球温暖化防止など「自然」をめぐるテーマがかまびすしい。「自然と人間」あるいは「自然保護はいかにあるべきか」など、社会の重要なテーマとしてくりかえし論じられている。


 日常的にもたしかに、メリハリのある四季の移ろいや梅雨時のしとしと降る雨といった私たちの感性を根底から育んできたやさしい自然が、いまや牙をむき出して私たちに襲いかかるようになった。
 心地よい春や秋は短く、やれやれ春になったと思ったら、こんどはいきなり高温の夏である。その夏はまさに亜熱帯気象で、スコールのようなゲリラ豪雨や竜巻きも、もはや珍しいものではなくなった。側溝は短時間に降る多量の雨水を処理しきれず、どこもかしこも冠水だ。
 そういうのはどうやら、私たちの社会がモクモクと二酸化炭素を排出して、自然に負荷をかけた所為せいらしい…。ならば、その排出を制限し自然保護すべきだ、という論法である。それに概おおむね異論がない。
 もっとも、地球は温暖化なぞしていないという研究者もいて、そこのところは、素人にはよくわからないという他ない。しかし、それはさておき、「自然と人間」とか「自然保護」というテーマそのものに、筆者は違和感があり、なにかしっくりこないのだ。
 というのも、字面は「自然と人間」だが内実は「人間と自然」で、人間の都合が優先されるものだからだ。ついこの間までは、二酸化炭素でもなんでも勝手し放題に排出して、平気のへーだった。それが異常気象をひきおこし、人間の生活に障るとなると一転、「自然に負荷をかけてはならない」「自然を保護しなければ大変なことになる」と声高にいい募るのだ。
 そうした自然保護にもほとんど異論がない。しかし、そういう保護もまた、自然を人間の都合によってコントロールしようとする思惑の範囲を出ない。というか、そうした思惑そのものではないのか。
 自然と人間と、一体どっちが上なんだろうかといつも思う。私たちは根本的に、なにか勘違いしているのではないか。そのことを改めて3・11の東日本大震災で、私たちは気づかしめられたのではないだろうか。


 17年前、阪神淡路大震災の時、筆者はガレキの中を歩いて神戸に行き、幸い事なきを得た友人に会った。その彼は開口一番、「オレ、なにも悪いことしてへんねやけど」といったのが忘れられない。実直でやさしく、彼の日常生活はその言葉通りのものだ。しかし、そんなことをいささかも斟酌しんしゃくしないのが、自然というものなのだ。私たちはそういう自然の中に暮らしているということを、もう一度しっかりと心に刻みつけなければいけないのではあるまいか。
 その意味でも、私たちが立てるべきテーマは、「自然と人間」というあいまいなものではなく、まさに「自然の中の人間」であろう。その自然の中の私たち人間がどうあるべきか―、それをこそ論じたいではないか。
 時として牙をむき出し強烈に襲いかかる自然に、人間はそれが収まるまで身を縮めて待つしかない。そういう微細な者同士が共に生きる、それが共生ともいきの思想だ。
 それを、近ごろ「キョウセイ」とよみ、「自然との共生」なぞというのは、誤用もはなはだしいという他ない。
 考えてみれば、これほどの傲慢ごうまん、これほどの勘違いもあるまい。私たちはどこまでも、人間の都合などいささかも斟酌しんしゃくしない自然の中に暮らしている、イヤ、暮らさせてもらっているのだ。何事も、そこを基点に考え、組み立てていくべきではないだろうか。

よく生きる
自他を比較せず歩む [下]

 前回、私たちがその中で暮らす自然というものを取り上げ、あらためて考えてみた。
 人間の都合なぞいささかも斟酌しんしゃくしない自然を前にすれば、「人間、この微細なるもの」という他はない。
 そういう自然の大きさをきちんと理解したならば、人間至上の考えはおよそ成り立つものでないことがわかるし、また、その微細なるもの同士の争いの、あまりに虚むなしいこともよくわかるだろう。そして、そこから、共に生きることも、よく生きることも、導き出されるのではないかと思うのだ。
 本稿ではそのなか、よく生きるということを考えてみたいと思う。


 この夏、久しぶりに『ダンマパダ(法句経ほうくきょう)』を通読し、つぎの名句に接することができた。
 ―自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。
 ―怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで1日生きるほうがすぐれている。(中村元 訳)
            
 仏教の創唱者・釈尊しゃくそんの語口をほうふつとさせるといわれるこれら初期経典の文言ほど、よく生きるということの本質を端的に述べているものはない。
 しかし、私たちはなぜかしら、他者の動向が気になって仕方がない。日常、私たちがよく使うものは何か、と質ただせば、皆おそらくケータイだと答えるに違いない。正解だが、実はもう一つある―。それは、(他者との)比較という心のはたらきだ。私たちは絶えずこれを用いて、なにごとにつけ、自他の位置関係を知ろうと躍起になっている。むろん、自己の優位性こそ問題なのだ。
 唯識仏教の人間観察によれば、私たちには元来、自己を恃たのんで他をあなどる慢心が具そなわっており、たとえ自分が明らかに劣っている場合でも、なんとか自分の名誉を守ろうとするのだという。
 たとえば、「アイツはたしかに優れている。それは認める。しかし、このオレだってそこそこやっているだろ」というような場合である。これは、慢心の中でも「卑慢」と名づけられる心の動きで、なるほど卑しいったらない。
 そんなヒマがあったら、怠りなまけないで、気力を充実させ、堅固につとめ励んで1日いきればよいものを、ただ悶々もんもんとし、嫉妬の炎にあぶられる身の上だ。
 ほとんどの場合、それに気づきもしないが、そんな自己であれば、人と共に生きることもできないわけだ。「自己にうち克つ」とは、自他を比較せず、自分の進むべき道をひたすら歩むということであろう。印象深い年の瀬を迎え、筆者自身、自分に言い聞かせたいことの一つだ。


 ところで、私たちは、世界に冠たる長寿社会に暮らしている。半世紀前まで人生50年だったのが、いまや80年だ。いのちが30年延びて、本当に幸せなのかどうか。それはわからない。げんに30年寿命が延びて、さまざまな問題が社会に顕在化してきている。しかし、科学技術の直線的な進展からみて、今後比較的短期間のうちに、人間の寿命はいっそう長寿化するものと思われる。
 人生50年が30年延びただけで、オタオタしている社会だ。それ以上延びたらどうなるのか。また、一人ひとりの個人の問題としても、長く生きるのは良しとして、死の位置づけはどうなるのか。いっそう、よく生きるということが深く問われることになるはずである。
 しかし、それにしても、私たちの社会は昨今、生きることにばかり熱心である。この点、斎藤史ふみさん(1909~2002年)の短歌に、
 死の側より照明てらせば ことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも
 というのがある。ひたくれなゐは真紅しんく、真っ赤な血の色だ。
 生きるといっても、生一途ではダメ。生の裏側で同時進行している死をいずれのこととせず、そこから生を照らしてみる。その時こそ、生きていることが何にもまして輝いてみえるではないか、というのである。
 死はなるほど生を否定するものだけれど、むしろその死を取りこんでこそ、生が輝いていくのだ。逆にいえば、死を遠ざけ、死はいずれのことと思う生き方では、人生は一向に輝かないということであろう。長く生きても、その生が薄味であってはつまらない。与えられた1日1日を濃厚に生きたいではないか。

たがわ・しゅんえい 1947年、奈良県生まれ。立命館大文学部卒。興福寺貫主。著書に『はじめての唯識』(春秋社)『心に響く99の言葉―東洋の風韻―』(ダイヤモンド社)『旅の途中 人の世を「身の丈」で生きる』(日本経済新聞出版社)など。