親鸞のいいたかったこと
田中 教照 たなか・きょうしょう 2011年1月22日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
失敗怖れず前進を
阿弥陀仏が護ってくれる [上]

 最近キレる若者に心配している。秋葉原事件のような、無差別に鬱憤うっぷんをぶつけるような悲劇がくりかえされている。この原因を私なりに分析してみると、若者に「救い」がないのではないか、と思われる。つまり、宗教的な救いの世界があることを知らされていないのではないか。
 一時期、農林大臣が他力本願ではだめだ、自力本願で行こう、などといって物議をかもしたことがあったが、以来、親鸞の他力本願はまったく誤用としかいいようのない使われ方をしている。今、親鸞が生きていたらどんなに嘆くことであろう。
 日本人は、外国の思想については、細かく研究するくせに、本邦のすぐれた思想について学ぼうとか、継承しようとか、という気概が極めて薄い。日本の仏教の重要な言葉がきわめて卑俗なかたちで誤用されていることを見てもそれは明らかである。たとえば、往生。他力本願もこの中に入る。
 他力本願は「あなた任せ」ということではない。まして、自力本願はありえない。なぜなら、本願に他力と自力の別があるのではなく、他力がすなわち本願(力)といっているのである。つまり、自力は非本願(力)なのである。こんな単純なことも理解しないで、勝手な思い込みをして、それがまことしやかに伝承されていく恐ろしさ。無知をさらけだして平然としていられる無神経さが日本人の特性なのであろうか。


 親鸞は、阿弥陀あみだ仏のはたらきがこの私たちに現に届いていることを「他力」といったのである。それは阿弥陀仏の「仏力」であり、本願から出ているので「本願力」ともいわれるのである。その具体的なものが、阿弥陀仏の名前(これを名号みょうごうという)である。これを疑うことなく一遍でも称となえる時、私たちは阿弥陀仏に護まもられる、と親鸞は説く。
 それを「摂取不捨せっしゅふしゃ」のご利益りやくと呼んでいる。阿弥陀仏がわたしたちを包み込んで離さないのである。それは、現代流にいえば、わたしたちの心に阿弥陀仏が住みついてくださる、といってもよいだろう。そして、阿弥陀仏は叫ぶ。失敗を怖れるな、しり込みするな、私が護ってやる、迷わず来れ、と。
 だから、決して、あなたまかせではなく、むしろ積極的に、どんな苦難も引き受けていくのである。護られることで、結果を気にせず、一歩を踏み出せるのである。これによって、前向きに勇気を出して生きていけることと、不思議な縁が恵まれることとで、現に救われるのである。
 阿弥陀仏との対話があるということは、わたしたちを決して孤独にはしない。そして、この世に起こるさまざまな理不尽な出来事も自己責任などという出口のない解決法でなく、この世を超えた視点からの意味づけで超越的に解決するのである。これを親鸞は「不退の位に就く」と表現している。不退ということは、前進あるのみ、ということで、後悔はない、ということである。


 現代の闇は、後悔の日々と自分を責めることの中にある。それは、個人の中で悪循環するばかりで出口がない状態である。他人にいってもどうせ分かってもらえないと思い、暗い話はウエルカムじゃないと遠慮して明るく振る舞う辛つらさ。
 そういう人に、あなたを見捨てはしない、と呼び叫ぶ本願のはたらきがあなたに向って届いているよ、その声にしっかりと耳を傾けてごらん、そして阿弥陀仏の願いを心に受け止めてごらん。すーと、安らぐ世界があるよ。大きなあなたの悩みがちっぽけなものに見えてくる世界があることを教えてもらえるよ。
 だから、仏さまの前に行って悩みを聞いてもらってごらん、といえる摂取不捨のご利益を他力本願のご利益と親鸞はいっている。

愚者に徹して生きよ
すべてを恕しこの世を去る [下]

 先日、私の両親が大変お世話になった方のお宅に招かれていった。そこには九十歳近くになられた女性が長男のお嫁さんに介護してもらっておられた。早くご主人を亡くされ、二人のお子さんを育ててこられたのだが、最近、アルツハイマーが進行しているとのことだった。
 介護は、大変な仕事で、その場に立ち会った人でないと分からない、筆舌に尽くしがたい苦労がある。先日も、高齢者虐待が話題になったとき、介護する家族の虐待寸前までいってしまう心境を聞かせていただいた。間一髪のところなのである。
 でも、その長男のお嫁さんは「大変ですね」という私の通り一遍の言葉に、「行く道ですから」と一言で応じた。さすがであった。感心した。
 「子供叱るな来た道じゃ、年寄り嫌うな行く道じゃ」の格言どおり、年寄りはわたしたちの未来を教えてくれている。人生は、ある時期から下っていかなければならなくなるのだ、ということを身をもって教えてくれるのがお年寄りである。


 親鸞もいう。「愚者になれ」と。みずからも「愚禿ぐとく」と称した。本物の愚者になることは、本物の賢者になることよりもむずかしい。だれも自己愛がある以上、自己肯定に傾く。自己否定はむずかしい。だから賢者になりたがる。しかし、煩悩が邪魔をするから、偽者の賢者にしかなれない。それでも、なお、賢者をめざす。愚者の自分が許せないから。
 だが、親鸞はその偽りが許せなかった。いや、阿弥陀あみだ仏の真実の光を蒙こうむったことによって、隠し通すことができなくなったのだ。だから、善導大師の「自身は現に罪悪生死の凡夫」という言葉に打たれ、ついに、「悲しきかな、愚禿ぐとく(親)鸞、愛欲の広海に沈没ちんぼつし、名利みょうりの太山たいせんに迷惑して」と正直に告白した。
 ここに、人間の本音を語る求道者の姿を見る。人間は、立て前では心を落ち着けることができない。だから、本音を理解してくれる人が欲しいのである。しかし、立て前ばかりが語られる社会のなかで、腹をわって、本音で話し合える人を探すことのなんとむずかしいことか。親鸞は、法然に出会い、法然から阿弥陀仏の本音を聞かされたのだ。「煩悩具足の凡夫を救う願が素手にここにある」と。これはお前を救う願であるが、しかし、いっさいの宗生しょうじょうが救われる願でもある、と。
 阿弥陀仏の救いのなかで、はじめて安心して愚者となれる境地を得た。愚者を救う本願があるからこそ愚者に安んじることができる。そして、自分が愚者であるという自覚から、相手をも愚者として恕ゆるすことができるのである。
 なぜなら、自分自身が素手に自己の愚かさを恕して生きているのだから。そして、阿弥陀仏の救いは、わたしたちを摂取して捨てないという慈悲心をもって私たちを支えてくれるのであるから、すでに私たちが恕されていたのだから。


 本願のこのような理解の上に、親鸞は、愚者に徹して生きる道を説いた。それは、片意地張って緊張しながら、内心の愚かさがバレはしないかとおろおろしつつ生きる生き方に比べたら、はるかにゆったりとした生き方である。
 そして、そういう片意地張って生きる善人でも救われる。まして悪人はなおさら救われる。それが阿弥陀仏の誓願(約束)だから、ということに軸足をおいて、自分も阿弥陀仏のお慈悲をいただき、また、他者にもこれをすすめて、ともどもに、ゆるしあえる生き方をしようではないか。
 そして、来るべき時には、自分という記憶すら失っていくのが人間であると、すべてを恕してこの世を去っていける人生にしようではないかと親鸞はいっていると思うのである。
 社会が救いを失って窮屈になっている。出口のなさにストレスをため込み、それが爆発するときは自己崩壊、人生放棄、というのではやりきれない。まず仏に支えられ、見護まもられ、お陰かげでなんとか生きられる、生きられなくても往生していくところは決まっている、という安心が今求められている、という気が私にはしてならないのだが。

たなか・きょうしょう 1947年、山口県生まれ。当代文学部印度哲学梵字学科卒。現在、武蔵野女子学院長。著書に「お経浄土真宗」(講談社)「初期仏教の修行道論」「親鸞の宗教」(山喜房仏書林)「仏は叫んでいる」(武蔵野大学出版会)など。