方丈記 八百年後の不安
浅見 和彦 あさみ・かずひこ 2011年11月5日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
絆は絶えぬ
それでも人は助け合う [上]

 鴨長明の随筆「方丈記」は来年成立八百年を迎える。
 長明は平安時代の末ごろ、京都の下鴨神社の神職の家に生まれた。そのころ日本は歴史の大きな転換点にさしかかっていた。保元の乱、平治の乱、そして源平の大争乱と時代は大きく揺れ動き、人々は不安と恐怖のまっただ中にいたのだった。
 さらに追いうちをかけるかのように、大火、竜巻き、遷都、飢饉ききん、大地震と災害や事件が次々と京都を襲った。1177年におこった安元の大火はたった一晩で平安京の3分の1を焼きつくし、大極殿、朱雀門など朝廷枢要の建物をことごとく焼きはらった。猛烈な風に煽あおられた火に人々は逃げまどい、煙で窒息死する者、炎にまかれて焼け死ぬ者など犠牲者は多数にのぼった。まさに地獄絵図の光景で、堀田善衛がこれと1945年3月10日未明の東京大空襲の悲劇と重ね合わせたことは有名だ(「方丈記私記」)。


 1185年3月、平家一門は壇ノ浦に滅んだ。その4カ月後の7月、京都地方は大地震に見舞われた。元暦の大地震である。推定マグニチュード7.4。直下型の地震だったらしい。市内の建物という建物は軒並み被害を受け、ある所では崩壊、ある所では倒壊。その音といい、その粉じんといい、人々は逃げ場を失ったという。
 長明は被災地を歩き回り、その惨状をつぶさに記し、方丈記に書きとどめた。
 そんな中、もっとも悲惨を極めたのが、養和の大飢饉(1181~82年)であったろうか。長期間にわたる少雨と日照り。かと思うと、大風に洪水。異常気象の連続で、これに長引く戦乱が状況をさらに悪化させた。春、夏の種まき、植えつけはかろうじてあったものの、秋、冬の収穫は全くない。人々は住みなれた故郷を捨て、見知らぬ土地へと移っていかざるを得なかったのである。
 そのさまはまるで今年の東北を見るようだ。東北の多くの田畑は地震でやられ、津波でやられた。それでも農家の賢明の努力でやっと収穫までこぎつけたものの、今度は放射能汚染で作物は出荷停止、廃業を余儀なくされた人もいる。原発事故ゆえ先祖代々の土地を離れ、避難所、仮設住宅、あるいは遠い地域へと移り住まざるを得なかった被災者の人々。親子、夫婦は引きはなされ、家族別々に暮らすことになった家もある。東北の人々はいったいいつまで耐えなければいけないのか。これほどの震さんをなめつくし、今なお苦しみの中にある。
 八百年前、鴨長明が目撃した光景と大震災の光景はあまりにも似ている。いや似すぎているといってもよい。長明は飢饉の惨状を知るべく、平安京を歩き回り、餓死者の数をかぞえあげた。その総数、なんと4万2300余人。当時の平安京の人口の半数に近い。痛ましい光景もたくさんあった。母親が死んだのもわからず、必死に乳房に吸いついている赤ん坊の姿。やっと手に入った食事を愛する子どもたちにまず与えようとして、先に力尽きて死んでいった親たちの姿。長明の目線はそうした哀れな弱者たちの悲痛な姿にじっと注がれている。


 6月末に「つなみ」(文芸春秋8月臨時増刊号)という本が出た。被災地の子どもたちが綴つづった作文集である。津波の直後は食べ物がなく、たった1枚の食パンを4分の1にして、みんなで分けあって食べた話、おにぎり1個を10分かけて食べた話、老若男女、空腹に耐えた話などあまた載っている。やっと配給された食事を若い人にまず食べてと遠慮したお年寄りもいたと聞く。津波で犠牲になった若いお母さんは生後4カ月の赤ちゃんを胸にしっかり抱いた姿で発見されたという。母親は最後までわが子を守ろうとしたのだった。
 八百年前の「方丈記」を読むにつけ、3月の大震災の話を聞くにつけ、人と人が助け合い、結びついた強い絆の話には心うたれる。それからは、人間が本来もっていたあたたかさ、やさしさというものが伝わってくる。

乱世の行動力
歩くは「養生なるべし」 [下]

 大震災に大津波。世界最悪ともいわれる福島での原発事故。追いうちをかけるかのように大雨に洪水。これに加えて記録的円高と長引く不況、そしてリストラ。年間3万人を超える自殺者。止まることのなかった経済成長と技術革新は人々に一定の幸福をもたらしたことは間違いない。しかし、すべてが良かったわけではない。物こそあふれかえってはいるが日本人は今、本当に幸せなのだろうか。日本は大きな曲り角に立たされている。
 およそ八百年前に生きた『方丈記』の作者、鴨長明はさまざまの災害に直面した。大火、地震、大飢饉。源平の争乱もまのあたりにした。長明の住んでいた京都はこれらの変災をまともに受け、混乱のきわみだった。京都という都市が根底からゆさぶられた。多数の人が逃げまどい犠牲となった。まさに「末法の世」であったのだ。法然や親鸞、道元といった偉大な宗教家たちがこの時代に簇出そうしゅつ、活躍したのも決して偶然ではない。


 長明は、その被災状況を見聞するため京都中を歩き回り、都の危うさ、都市のもろさにいち早く気づいた。
 「味やこの中は危険で、家を建てたりするべきではない」
 都心に密集する建物の危険性を早くも指摘していたのである。
 長明の生家は京都の下鴨神社。しかし、彼の人生は必ずしも幸せではなかったようだ。親族とはあまりうまくいかず、妻子との離縁もあったらしい。50歳のころ勤務していた宮廷の職務を投げすて、出家、遁世とんせいして隠者となってしまった。出家とは僧侶になること。遁世とは世俗間との関わりを断つこと、隠者とは都会からのがれ、静かな山野で自由に暮らすことをいう。出家遁世、隠者という言葉は何やらことごとしいが、一生懸命に働き続け、やっと定年までこぎつけた人々が、田舎暮らしにあこがれるのと何となく似ているともいえる。
 長明は出家後、京都近郊の日野(今の京都市伏見区)に小さな草庵そうあんを建てて、暮らした。庵いおりの広さは「方丈」。すなわち一丈(約3メートル)四方で、五畳前後の広さである。決して広いとはいえないが、この庵を長明はたいそう気に入っていた。のびのびした自然の中で自由を満喫していたのだ。ここで書かれたのが『方丈記』で、むろん書名の由来でもある。
 天気の良い時は近くの山にのぼり、当時あった巨椋池おぐらのいけ(今は埋め立てられてない)の広々とした光景を見やっていた。自然の美しさは長明にとってこの上ない癒しとなった。窮屈な都会生活をのがれ、煩わしい人間関係から解き放たれ、美しい風景の中で自由に生きていく。これが長明が理想とした生活であった。
 都会の生活は現代もなお息苦しい。長明の時代より数倍、数十倍、いや数百倍つらいに違いない。朝夕の満員電車。ひっきりなしの電車の遅延に交通渋滞。携帯電話やメールに追いまくられ、上司にしかられ、客にあたられ、一日中ペコペコと頭を下げていなくてはならない。一時いっときとして心休まる時間がない。


 長明は『方丈記』の中で似たようなことを言っている。「身分低い者は高位の人の前では笑うこともできない。泣くこともできない。いつもへつらって生きていかなくてはならない」。現代社会での悲哀と苦痛はますます深刻さを増している。
 鬱屈うっくつした生活の中で長明は美しい自然に心の開放を求めた。庵の近郊を散策し、気分良ければ「峰をよぢのぼって」山を越え琵琶湖近くまで歩くことがあった。すでに60歳を超えようとしていた。その体力の強靱きょうじんさには驚かされる。その強靱さこそが長明に不安な時代を生きぬかせたのだ。
 彼には一つの哲学があった。「常に歩ありき、働はたらくは養性なるべし」。歩くこと、動くことは体に良い、健康に良いというのである。あたかも現代の飽食、肥満を見透かしていtるかのような発言だ。
 長明は歩いた。京都市中だけではない。伊勢に、熊野に、新都建設中の福原(今の神戸)にも。新しい東国の都、鎌倉にも出向き、将軍の源実朝といくども面会した。鎌倉下向の折、長明は川越まで足を延ばしたのではないかと私は思っている。
 隠者は「隠」れていなかった。隠者は歩いた。行動した。その好奇心と見聞欲は旺盛だ。その気力と行動力こそが困難な乱世を突破し、生きぬく力だったのではないだろうか。

あさみ・かずひこ 1947年、東京都生まれ。東京大文学部卒、同大学院博士課程満期退学。成蹊大教授。専門は中世日本文学、環境日本学、地域文化学。主著に「日本古典文学・旅百景」(NHK出版)「壊れゆく景観 消えてゆく日本の名所」(慶応大出版会・共著)「方丈記」(ちくま学芸文庫・近刊)。