初歩からの般若心経
田上 太秀 たがみ・たいしゅう 2011年10月22日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
衆縁和合の身心
思うようにならない [上]

 『般若心経はんにゃしんぎょう』は『摩訶まか般若波羅蜜多心経』の略名です。名称の中の「心」はいわゆる心ではなく、もと心臓、精髄という意味で、ここでは神髄と解釈されています。つまり摩訶般若波羅蜜多とは、ブッダの般若は無比、無上(摩訶)であり、完成されている(波羅蜜多)という意味で、その神髄(心)を説いた経典が摩訶般若波羅蜜多心経です。
 『般若心経』は8万4千の法門を説いているとよく言われていますが、じつは内容は多種多様の法門が紹介されているのではありません。はっきり言って仏教の基本思想の一つ、空くうの理法だけを説いた経典です。といって空の意味を学ぶだけでは不十分です。空は衆縁和合しゅうえんわごうの理法によるからです。


 釈迦しゃかは35歳のとき、菩提樹ぼだいじゅのもとで、すべてのものは衆縁和合して生じては滅しているという理法を発見したと伝えられています。衆縁和合の理法とはあらゆる形作られたものには不滅なものはなく、すべてが寄り合い、依り合い、縁り合いながら生じては滅しているという因果の道理のことです。(これはすでに本紙2010年9月11日付「仏教談話(上)」で述べました)
 衆縁和合しているからすべての形作られたものは限りなく変化しているのです。これを諸行無常しょぎょうむじょうと言います。だから我が身も周りのものもすべて自分の思うようにならない・願うようにならない・欲するようにならないのです。これを一切皆苦いっさいかいくと言います。ものはみな衆縁和合しているので、したがって他のものの援助がなくても、他に依存することがなくても存在できるものはなに一つないということ、これを諸法無我しょほうむがと言います。
 ものはみな衆縁和合している、つまり生き物も無生物もあらゆるものに助けられ、依存しながら、千変万化しているので、それぞれの固定した特徴も形もない。永久に不変、不滅であり続ける性質も本質もないのです。みな多くの要素が集まって、種々の原因と条件の絡まりによって形成されているにすぎない。これが世界の道理であり、理法だと釈迦は説きました。
 このようなもののあり方を一言で釈迦は「空くう」と表しました。空とは空っぽ、空虚という意味ですが、このサンスクリット語の動詞語根は「腫れる」といい、この形容詞がシューニャです。もとの意味では、空とは「膨れ上がった(もの)」です。あらゆる有形・無形のものはみな膨張したものという意味です。


 『般若心経』前半にある五蘊皆空ごうんかいくうの文句は、端的に五つの集まりとはみな膨張したものということです。
 五蘊とは色しき・受じゅ・想そう・行ぎょう・識しきの五つのことです。色は肉体、つまり身のこと、受・想・行・識は感覚作用の総称で、心のこと。五蘊とは身と心を表します。この心身しんじんは空だと冒頭部分で述べているのは、私たちの体は五つの集まりで、そこにたとえば霊魂のような不滅な、不変なものがあると思い込んでいるなら、それは妄想であって、それはちょうど膨れた風船になにかあると思い込んで、もっと大きいなものを求める子どもに似ているという意味です。
 色即是空しきそくぜくうとは肉体(色)は衆縁和合しながら膨張した形作られたもので、そこには霊魂も精神も内在していないという意味です。受想行識亦復如是じゅそうぎょうしきまたかくのごとしは、感覚したものも衆縁和合の産物で、無常で、私の思うようにならないという意味です。
 つまり私たちの身も心も千変万化し、私の思うようにならず、私のものでもないことを空と表したのです。なぜか。体も衆縁和合しているからです。

空虚なことば
あやつられず実践を [下]

 世界の生物、無生物のすべての存在は衆縁和合しゅうえんわごうして膨張しながら形作られ、生じては滅していることを『般若心経はんにゃしんぎょう』の前半ではのべていました。五蘊ごうんから構成される私たちの体も衆縁和合し、膨張しながら形作られているので、無常で、思うようにならず、そのうえ私のものはないことを色即是空しきそくぜくうという文句で表したのです。このように我が身を観察する心のはたらきも般若と言います。
 この考え方をもとに、後半ではことばや文学、そしてそれらで表された観念や概念も創造された(膨張した)もので、みな空であると説いています。つまりことばや文字はそのものを正しく表していない、そして一定の意味をもたないというのです。
 ことばはもともとなかったけれども、だれかが他のものと区別したり、ものごとを分別したりするために作り、そのことばの発音に則して文字を作ったと考えられます。


 たとえば悩むこと、困ることなどを古代インド人はクレーシャと表しました。これを中国では煩悩ぼんのうと翻訳しました。煩悩といえばさとり(菩提ぼだい)の相対語ですが、一体、煩悩とかさとりはどんなものかと聞かれて、これですと指摘できる人がいるでしょうか。なにを指して煩悩とかさとりというのか、その正体がわかりません。
 また、仏典にある煩悩は複雑な意味をもっていて、一体、なにを煩悩というのか答えに困るほどのことばになってしまいました。対するさとりのことばについても、釈迦しゃかのさとりとわが国の宗祖たちのさとりとはみな異なるとよく言われます。では、だれのさとりが本物かというと、わかりません。
 つまりことばはものそのものを正しく表現していません。一応、常識的にこんな意味があるという程度で使われていると認識すべきです。つまりことばの意味に固執して、異なる意味を唱える人と争うことは愚かであると経典は教えています。
 ことばや文字はものを表す方便であり、道具にすぎないのです。その意味は人が作ったもので、時により、場所により使い方が異なります。だから方便であり、道具なのです。ことばも文字もその意味も衆縁和合して作られ、増えるものです。ことばも文字もその意味も固定したものがなく、千変万化して、多種多様で、実態がなく、生じては滅してゆく定めのものです。また、そのことばや文字で表された概念も観念も同じように固定したものがなく、千変万化して、多種多様で、実態がなく、生じては滅してゆく定めです。
 たとえブッダの教えでもことばと文字で表されたら、それはことばと文字の意味の範囲でしか理解されません。ことばと文字で学び、知ることは決してブッダが伝えようとした意味そのものではないことを知らなくてはなりません。なぜならことばも文字も方便であり、道具にすぎないからです。ブッダの伝えたい心を学び取るには確かにことばや文字に頼るほかありませんが、それを手掛かりにしてその深奥に踏み入ることです。つまりブッダが説いた道を実践することが求められるのです。


 後半で、たとえばものの現象を消滅や浄不浄や増減などと表していますが、よく観察すると、ものは衆縁和合していて、千変万化しているだけで、ものには消滅も浄不浄も増減も本来ないと言っています。また、感覚器官の名称や感覚対象の名称も仮に分別するための方便としてつけられたもので、本来そのようなものはない。ブッダが説いた12縁起の教えも4つの真理の教えもことばで表したものとは異なる。老いるとか死ぬとかいう現象も体の変化をことばで表したことで、何歳から老いということも目安にすぎない。死ぬのも体の変化、悲しむことでも喜ぶことでも悩むことでもない。草木が芽生え、成長し、萎しおれ、枯れて、枯れ尽きる自然の姿を見て、だれが老いて死んだというでしょうか。
 私たちはことばや文字にあやつられ、老いを恐れ、死を恐れて、来世を想像して迷っていませんか。経典は一切を空と見れば、心は安らぐと教えています。

たがみ・たいしゅう 1935年、ペルー・リマ市生まれ。東京大大学院博士課程修了。インド仏教・禅思想。駒澤大教授、駒澤大副学長、駒澤大禅研究所所長などを歴任。現在、駒澤大名誉教授、文学博士。主な著書は『仏陀のいいたかったこと』『禅語散策』『涅槃経を読む』『道元の考えたこと』(講談社学術文庫)『ブッダ臨終の説法』全4巻(大蔵出版)など。