死者もまた思い出の器
福島 泰樹 ふくしま・やすき 2011年9月3日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
さまざまな死
瓦礫の山に重なる焦土 [上]

 「阪神・淡路大震災」には、人間的響きがある。大阪、神戸、淡路という被災地を明確にしているからである。居住する人々の顔が浮かび上がってくるのだ。「東日本大震災」という呼称はどうか。
 「東日本」とは通常、北海道・東北・関東の三地方の総称である。大平洋三陸沖を震源とする大地震から、なぜに「東北」の名を消し去ってしまったのであろうか。正しく事態(歴史)を伝えてゆくためには、「大平洋沿岸東北地方大震災」とすべきではないだろうか。
 なぜに、原発事故が福祉まで起きたのかと問うとき、律令りつりょう以来中央から追いやられてきた東北の歴史が浮上する。朝敵の汚名を着せられ、極北の地に移住させられた会津の人々の無念はなおさらであろう。電力は東京で消費しているのに、なぜに東北かという思いが、こんな歌を作らせた。
  天罰であるなら首都を襲うべし無辜むこなる民のひたひたと来よ

 震災から少し日を経て、車を走らせた。水戸の知人を見舞い、常磐道から国道6号線(陸前浜街道)に出る。北茨城(茨城県)といわき(福島県)の知人を見舞うためである。傾いた家、剥き出しになった家、すっぽりと地面を覆う屋根…。浜街道もただならぬ状態だ。
 関南町(北茨城市)を右に折れ、仁井田の海岸に向かい、町や村を襲った津波の惨状を目の当たりにした。空き地に積まれた瓦礫がれきの山に、幼年時の風景がひろがっていた。


 疎開地の出雲から3歳の私が、東京に戻ったのは、昭和21年の夏近くになってからである。父母は、近隣の寺の一間を借りて生活していた。出雲から兄が、次いで祖母と伯母と私が帰り、2人の叔父が戦地から復員。八畳間は、再会を果たした家族で膨れ上がっていた。
 母に連れられて、私は毎日、焼け出された寺の跡地に通っていた。東京大空襲(昭和20年3月10日)の死者は10万人、罹災りさい者は100万人に及んだ。一夜にして、東京の4割が廃虚はいきょと化したのである。
  一片の骨を砕いてセメントに絵を描いているちいさな指が

 夏草靡なびく焼土の彼方かなたには、焼け爛ただれた鉄骨が陽炎かげろうのように煙っていた。幼い罹災者の目を遮るものはなにもなかった。上野の山の濃いみどりが無気味に風に戦そよいでいた。そう、一面が焼け野原であったのだ。
 女手ひとつの瓦礫の後片付けは、並み大抵のことではなかったであろう。木々は根刮こそぎ炭化していた。散乱する屋根瓦や石の土台、トタンや食器の欠片かけらなど、分厚い泥となった灰の中から拾い集め、もち運ぶのである。
 その日も母は、草葉で、若い汗を滴らせていた。私はといえば、草の門柱の日陰で、地面に剥き出しになったコンクリートの上に、ものを描いていた。いきなり母が、私の手から白いかたまりを取り上げた。「ヤスキ、コレハヒトサマノ骨ダヨ」。やわらかな白いろう石と思い、手にしていたものは、炭化したひとの骨であったのだ。この地上で私が、初めてものを書いた日の記憶である。
  波打っているのだろうか
  空もまた渚なぎさに散った夢の数々


 人は、思い出の器である。空き地に積まれた瓦礫の山に目を注ぐ。日常家具や電気製品、そんなものは敗戦後の瓦礫の山にはなにひとつなかった。この瓦礫の山には、戦後66年の人々の歴史がしっかりと刻まれている。
 そういえば私の母は、何一つ捨てようとはしなかった。廃虚の無一物から立ち上がり、買い求めてきた物の一つ一つに、思い出が刻印されていたからであろう。死者もまた、思い出の器である。
 被災地の浜辺で、私は人々が紡いできた夢の数々に、法味を言上ごんじょうしていた。

無常観の連帯
「悲しみ」に真実がある [下]

 そうだ、人は思い出の器であるのだ。二十歳で死んだ若者の五体には、20年間の思い出が、濃密に脈打っている。戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』や、出撃を前に綴つづった特攻隊の手記が、感動を与えるのはそのためである。
  憶い出の器であれば慈悲ふかく葬りたまえ雲湧く果てに

 沖縄に向けての最後の特攻機が飛び立っていった昭和20年6月、祖母に連れられて私は、出雲の寺に疎開していた。あたり一面真っ青な田んぼがひろがっていた。こぬか雨降る畦道あぜみちを祖母は、私を背負って歩いていた。やがて、土手にさしかかり、祖母の体が大きく傾かしぎ、私は暗い川面 に沈む草を眺めていた。
 高熱の私を町の病院に連れてゆこうとした祖母は、道に迷い、夕暮れの土手で転倒、危うく死ぬところであった、という。
  切なさや漣さざなみのように襞ひだをなし押し寄せてくる憶い出なるよ

 記憶というものは、いかに進化した映像機器よりも霊妙な力を兼ね備えている。2歳の記憶を一瞬のうちに、呼び起こし再生することができるのだ。それも、目ばかりの記憶ではない。耳や手や肌の記憶も、人間という記憶装置は、具備しているのである。
 60を過ぎて、しみじみと思うようになった。いまの俺は、若い頃の俺よりもずうっと豊ではないか。この間、出会って、別れていった実にたくさんの人々。小学校の恩師、父、母、叔父叔母などの肉親、学友、あまたの知人たち。初恋の女もいれば、若く死んでいった奴もいる。立松和平(作家)や清水昶あきら(詩人)など、時代を共に駆け抜けてきた同志たち。彼ら死者たちが、たえず私の心の中を出入りし、艶やかで豊かな時を結んでくれるのである。


「過去」や「感傷」と笑ってはいけない。思い出こそが、人生という時間の中で日々生み出され、埋蔵されてゆく財産にほかならないのだ。東北地方を襲った大地震は、そのことを改めて思い起こさせてくれた。
  ワイシャツは波に洗われ
  そこにいた人の姿をしておったのだ

 告白をしよう。戦後、66年という時間を大過なくすごした私は、あと何年間かをこの地上に命を留とどめ、思い出の数々をのんびりと土に帰してゆけるものと信じていた。ところが、3月11日の大地震は、そんな期待を一瞬のうちに霧散させ、さらに原発事故発生は、私の目論見もくろみを完膚なく打ち砕いた。私たち日本人は、広島、長崎に連繋れんけいしかねない歴史を引き受けなければならなくなったのである。
 66年もの間、人々が、戦争、天災、大火などからまぬがれてきた時代は過去にあったか。大逆事件が発生した明治43年に東京・下谷に生まれた父は、関東大震災(大正12年)、東京大空襲(昭和20年)と、わずか22年の間に、2度までも生まれ育った寺を消失している。


 大正6年、浅草に生まれた実母に至っては、6歳で関東大震災に遭遇。大火を逃れるさ中、迷子になり、1週間後に上野公園で家族と再開した。この間、家を焼かれた人々が、寝床や食を与えてくれたのであろう。
 以後、母の頭上を、満州事変、2・26事件、盧溝橋事件と戦争の嵐が吹き荒れていった。太平洋戦争に突入した昭和16年、父の寺に嫁ぎ、18年3月に私を生み、翌19年3月に私が生まれた病院の同じ部屋で死んでいった。26歳であった。わずか26年に、これだけのことがあったのである。
  戦後民主主義の極みやマスメディアに飼い慣らされて国滅ぶべし

 人々は死にものぐるいで働き、せん御復興をなしとげ、高度成長の時代を迎え、富を手に入れた。バブルは弾はじけ散ったが、人々は変わることはなかった。テレビを見よ。人を貶おとしめるタレント、衆愚政治に拍車をかけるコメンテーターと呼ばれる人たち。ホテルのように明るい葬儀場。
 事物は消滅し、人は死ぬ。悲しみを忘れたところに、人間の真実はない。日本人は、早急に「無常観」を回復しなければならない。早世した作家高橋和巳は、それを「悲しみの連帯」と言った。

ふくしま・やすき 1943年東京生まれ。早大文学部卒。歌人、立正大客員教授。東京・下谷の法昌寺住職。歌謡の復建を求めて「短歌絶叫コンサート」を創出、1300ステージをこなす。毎月10日、東京・吉祥寺「曼荼羅(まんだら)」で月例絶叫コンサートを開催中。近著に『わが心の日蓮』(春秋社)。