道元の世界
角田 泰隆 つのだ・たいりゅう 2011年8月20日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
自分の見方が正しいのではない
他者の人生観を認める [上]

 鎌倉仏教の曹洞宗の祖師であり、日本を代表する思想家とも評される道元禅師。坐禅ひとすじの生涯のなかで、自ら中国にわたって伝来した禅の教えを、縦横無尽に説き示している。
 中でもその主著『正法限蔵しょうほうげんぞう』は非常に難解であるが、そこに示された極めて高尚な世界観・人生観は、世界の多くの哲学者や思想家から注目されている。
 ところで道元禅師は、自ら伝えた仏法を「正伝の仏法」とし、揺るぎない信念を持って解き明かしているが、それに相反するかのように、その根底には実に寛容で柔軟な姿勢を持っていた。『正法眼蔵』「現成公案げんじょうこうあん」巻に次のような説示がある。
 「舟に乗って陸地の見えない海原に出て四方を見ると、ただ丸くのみ見えるだけであり、ほかに違った景色が見えることはない。しかし、この大海は丸いのではなく、四角いのでもない、自分の認識を超えた様々さまざまな海の姿や働きがある。同じ水を魚は宮殿と見、天人は瓔珞ようらくと見るようなものである。ただ自分の眼が見渡せる範囲において、仮に海は丸く見えるだけである。そのように、あらゆる物事もまたそうであり、私たちは自分の能力の及ぶ範囲で見たり理解したりしているにすぎない。あらゆる物事を見るのに、自分の見方が正しいのではなく、様々な見方があることを知らなければならない」(意訳)


 わたしが道元禅師を尊敬することの一つは、「我こそが正しい」とは、決して言っていないことである。その寛大なものの見方、柔軟な心である。
 人にはそれぞれ、これまでの人生で培われてきた人生観があろう。人生観などという大袈裟おおげさなものではなくとも、皆それぞれ自分の見方、考え方、生活スタイルを持っている。年を重ねれば重ねるほど、人生経験も豊富になり、それなりの見識も生まれる。それは当然のことであり、悪いことではない。しかし、己見にとらわれてしまうと、そこから周囲の者との軋轢あつれきが生じて、苦悩の原因となることもある。
 信念を持って生きることは大切であり、自分の意見を主張することも必要であるが、お互いに、他者の立場や考え方、生き方を認める寛容さが大切である。その上で虚心に語り合うことができれば、自分の人生も社会も良い方向に向かうはずである。
 仏教では、人間の苦悩の原因は「我執がしゅう」であると説く。自己へのとらわれである。そしてその本質は「思いどおりにしたい」「思いどおりになっってほしい」という願いである。
 しかし、人生は思い通りにはならない。なぜならこの世は「因縁いんねん」によって動いていくからである。「因縁」つまり、あらゆる物事には因(原因)があり、そこにさまざまな縁(条件)が複雑に関わり、果(結果)が生じていく。だから思わぬことも起こる。思わぬ方向に展開していくこともある。決して、自分の思い通りには進まない。


 災害は起こらないでほしい。事故が起こらないでほしい。平和であってほしい。健康でありたい。そのように願うことは当然であり、大切である。しかし、いくら願っても、思い通りにはならないのが人生である。
 「思い通りになってほしい」、しかし「人生は思い通りにならない」。そのギャップに私たちは苦しむ。「人生は思い通りにならない」ということが、どう考えても現実であるとすれば、やはり、その一方の「思い通りになってほしい」という自分の思いの方を何とかしなければならない。
 しかし、これがまた難しい。この思いを無くすことは、決して簡単ではない。まさに修行である。
 私自身もこの人生「思い通りになってほしい」と思う。災害も事故も争いも病気もイヤである。しかし、イヤなことが次から次へと起こる。
 良寛さまは言う、「災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と。まことにその通りであろうとは思う。しかしそのような心境にはなかなかなれない。
 だから修行は容易ではない。一生続くのである。

人生は夢
何も求めずあるがままに [下]

 禅僧はよく「夢」という一字を揮毫きごうする。「夢を持て!」ということではない。「人生は、所詮しょせん、夢のようなもの」という意味である。
 私たちが生きている世界は、いったい何であろう。まさに夢のような世界である。
 宇宙が誕生したのは百数十億年前とも言われる。途方もなく遠い過去であるが、無限の過去ではない。そして、この宇宙が消滅するのも、遥はるか未来であるが、無限の未来ではない。いずれは全てが消え去る。
 世界遺産といって大切にしても、永遠に遺のこすことはできない。ましてや個人が所有する財産など、朝の霧のようにはかないものである。このはかない世に存在する何かを、守ったり奪ったりするために大切な命を犠牲にすることは、実に愚かなことではあるまいか。とはいえ、その大切な命も何いずれは終焉しゅうえんが訪れるのであるから、その命にでさえ執着しゅうちゃくしてもどうしようもない。
 まったく、人生は夢、この世は夢幻のような世界である。
 しかし、その夢のような世界のほかに現実はない。


 「夢中説夢むちゅうせつむ」という言葉がある。「夢中に夢を説く」と読み、「今日、こんな夢をみたよ」と夢の中で他人に話している様子をいう。何とも実体のない、夢幻のことをいう。
 この「夢中説夢」という話を取り上げて道元禅師は、「夢中にあらざれば説夢なし。説夢にあらざれば夢中なし。説夢にあらざれば諸仏なし、夢中にあらざれば諸仏出世し転妙法輪することなし」(『正法眼蔵しょうほうげんぞう』「夢中説夢」)と説いている。
 何を言っているのかというと、この夢のような世界のほかに現実はなく、そして、この夢のような現実の世界の中に諸仏が存在し、すばらしい教えを説いていると言うのである。
 人生は「夢中説夢」のようなものであるが、「夢中説夢」のような人生こそ現実の人生であり、それ以外に生きる道を求めても、生きる道はない。
 そこでこの現実を、どう生きるか。それが問題である。
 「どうせ夢のような人生なら、せいぜい勝手気ままに、思い通りに生きればいいさ」とも考えたくなるが、そのような生き方ができて、自分も楽しく、周囲も幸せなら、それはそれでいい。しかし、前回述べたように、人生はそうはいかないものである。
 勝手気ままに生きようとすれば、他との軋轢あつれきが生じて苦悩し、思い通りにしようとしても思い通りにならずに苦しむのである。


 道元禅師は、我執がしゅうを離れ、名誉や利益を求めず、「ただ坐れ」という。何も求めずにただ坐って時を過ごすこと、つまり只管打坐しかんたざが最高の生き方であるという。
 ところで、ただ坐ることがいったい何になるのか。私にとって長らく大きな疑問であった。何の生産性もない。自己満足ではないのか。
 しかし最近、私は思う。どうせ夢のような人生である。命のあることを実感したい。「ただ、ありのままに坐る」。これほど贅沢ぜいたくですばらしい時間の過ごし方はないのではないか、と。
 坐禅の時、今が何時なのか、ここは何処いずこなのか、私は誰なのか、と考えることはない。ただ「あるがまま」「ありのまま」に坐る。
 そのとき、私は、時間的にも空間的にも有限な、夢幻のような世界の中で、時間を超えた時間を生き、空間を超えた空間に生きている。坐禅の時、「今」の中に永遠の時間があり、「ここ」の所に無限の大宇宙があるのである。
 道元禅師の教えで只管打坐と同様に大切なのが「自未得度先度他じみとくどせんどた」である。「自ら渡るを得ざる先に、他を渡す」と読む。『涅槃経ねはんきょう』に見られる言葉である。
 夢幻のような世界であるが、それが現実の世界であり、その現実に苦しんでいる人々がいれば、放っておくことはできない。我より先に他を救う、それがまた仏教の生き方である。
 たった一人のためにでもいい、その人に光を与えることができれば、それが無上の生き方である。
 全ての人が只管打坐のすばらしさを知り、「あるがまま」「ありのまま」のすばらしさを知り、そして「自未得度先度他」の心を持ち実践することができたとき、この世の中は、きっと理想の世界になっているに違いない。
 それが道元禅師が目指した世界である。

つのだ・たいりゅう 昭和32(1957)年、長野県生まれ。駒澤大大学院博士課程満期退学。大本山永平寺安居。曹洞宗宗学研究所、駒澤短期大を経て、現在、駒澤大仏教学部教授。著書に『禅のすすめ―道元のことば』『ZEN道元の生き方』(日本放送出版協会)など。