プロフェッショナルの矜持きょうじ
鷲田 清一 大阪大学学長 2011年8月17日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
原発議論 複合的視点で

 いわゆる牛海綿状脳症(BSE)問題で米国産の牛肉の輸入が禁止されてしばらくたったころのことである。大阪大学大学院の共通 ゼミナールで、「米国産牛肉の輸入を再開するためにはどのような条件を付したらよいか?」というテーマで討論がなされた。参加した大学院生の所属は、文学、法学、経済学から医学、薬学、理学、工学まで、ほぼすべての研究科にまたがる。


 最初に口を開いたのは医学系の院生たち。この問題を科学的に論じられるのは私たちだけだ、といった顔つきで、「疫学」的な見地から持論をとうとうと述べた。そこに経済学の院生が口を挟んだ。幼稚な議論だな、といった面持ちで、日米の貿易摩擦の実態と背景を見なければ問題は明らかにならない、と。すぐに政治学の院生が、それには日米の外交関係も深くかかわっているとつけ加える。すると、文化人類学を専攻している院生が、やれやれといった表情で、みんな近視眼的だな、問題の本当の核心は、急激な人口増に対処するために牛に肉骨粉を与え大量に飼育する、つまりは牛にカニバリズムを強いることになった「牧畜」という、人類文明の「業」のようなあり方にあると主張する。
 問題の文脈がどんどん増殖する。そして問題のいかに複合的なものであるかに、多くの院生が眼を開かれることになる。重要なのは専門の知識ではなく、それらを知ったうえで、それらをまたぐこの問題についてどのような判断を下すかということだ、と。この例題を提示した教員のもくろみもそこにあった。
 このゼミナールのことを思い出したのは、原発事故処理をめぐる議論の渦中にいまわたしたちがいるからである。安全管理の問題、研究・開発をめぐる産官学のもたれあいの構造、代替のエネルギー源の問題、それにともなう環境保護の問題、事故処理にあたる内外企業の利権、壊滅的な打撃を受けた地元産業の支援、放射能飛散の国際的な刻下責任、そして原発輸出の是非。問題はまさに複合的である。安全性が最重要問題であるにしても、そこへの着地の仕方は一筋縄ではゆかないものである。


 ところが機械工学など隣接分野の研究者たちの発言の多くは、先の例でいう「疫学」的見地に終始している。つまり安全性をめぐる装置の問題である。そして産官学の「もたれあい」の構造について問えば、「あそこは特殊なムラだから」とおなじ答えが返ってくる。
 わたしはそれが問題だとおもう。「原子力工学」の分野(ちなみに「原子力工学会」という研究者コミュニティーは存在しない)が「特殊なムラ」であることは、他の理工学研究者たちもよく知っていたのである。知っているのに、他の専門領域だからと、口を挟んでこなかったのである。
 じぶんの知的努力を一つの専門領域に限り、専門外の領域に対して発言するのは越権としてみずからに禁ずる。裏返していえば、他の領域からの意見を専門外のものとして、受け容れようとしない。そして複合的な判断が必要なことがらについては発言を慎むどころかそれを「非科学的」と斥しりぞける。これがいつからか研究者の「美徳」になっていた。
 専門家は「賢者」でもあるべく求められているとおもう。専門的見地から確かに言えることを述べつつ、同時に複合的な問題の全体につねに視野を広げておかなければならない。そのうえで専門外のひとたちとともにある最終判断を下し、その判断に基づいて専門家としてのみずからの責務をさらに果たしてゆかねばならない。 プロフェッショナルの矜持きょうじとはそういうものだとおもう。