「地域」再生 ある建築家の試み
鷲田 清一 大阪大学学長 2011年1月12日(水曜日)中日新聞「時のおもり」より
「施設」としての建築に抵抗

 地域社会の再生を、とだれもが口にしながら、「地域」のそのイメージが具体的に収束してこないままになっている。「地域」の対極に思い描かれているもの、これは明確である。家族ごとに鉄の扉で隔離された密室群としての集合住宅である。単身者から共同家族まで、居住形態は多様化してきているのに、いつまでも「標準家族」をイメージしたままの、玄関もトイレも浴室も一つずつという、あのパッケージ商品としての住宅である。
 だから「地域」ということで、昔の商店街のような、家族の内と外との境が格段にゆるい町並みを懐古的にイメージする人もいれば、たほうで、団地の集会所のような公共空間を思い浮かべつつ、しかしふだん大型スーパーか都心のデパートで買い物し、「地域」を意識しようにもごみ収集日といった行政的な暦くらいしかない、そんな空疎な感覚をぬぐえないひとたちもいる。いずれにせよ、シャッターの下りた商店街や大型商業施設が連なる国道沿いの光景を劇的に更新するような「地域」のイメージは、まだどこにも結晶していない。


こうした状況を建築家はどう受けとめているのか。そんな関心から気になっているプロジェクトがある。「一住宅=一家族」という仕組みとはまったく異なるコンセプトで、四百人ほどのひとがいっしょに住む、そういう居住空間を構想する山本理顕の<地域社会圏モデル>である。エネルギー供給やごみ処理のシステムから介護や子育てや買い物まで、一体として考えるその設計プランについては、いろんな議論があろう。が、私が注目したいのはその思想である。それが雑誌「atプラス」の最近号に掲載されている。
 現代の建築は、その建築空間をオフィス、病院、図書館、学校というふうに機能類型ごとに切り分け、さらに建造物を一定の敷地内に厳重に収めるよう設計される。つまりそれは、周辺の場所の特性とは無関係に管理される「施設」の建築になっているというのである。戦後、住宅もまたこのような「施設」として大量に供給されてきた。相互に干渉しあわない隔離施設のような配置で、孤独死や家庭内暴力、老老介護などもこうした「住宅の欠陥」と無関係でない…と、ここまでは多くが指摘することである。
 注目すべきは、家族生活を私的なものとして隔離するこの方式と、官僚制の統治システム、つまり管轄部局の内部が排他的(=私的)に運営されていることが、同型的であるという指摘である。建築設計者は「民間業者」としてこの官僚制のボトムのところで、公営住宅法、学校教育法、医療法、図書館法などそれぞれに管轄が異なる法律に縛られる。そう、病人は救急車で「搬送」されるから旅客課に、遺体は霊柩れいきゅう車で「運搬」されるから貨物課に、という区分けのようなものである。「類型が決まり、敷地が既に決まり、予算が決まって、その最後の段階で設計者が決まる」。そしてインフラ整備は官庁が発注する。建築家とは末端の「施設」の設計者でしかありえないのである。


 山本はこの「施設」としての建築に抵抗する。上下水道のようなハードなもののみならず、情報網や住民の相互支援の仕組みなども間違いなくインフラである。各住戸を密室にしない<地域社会圏>を、山本はそれらのインフラごと造ろうとしている。走るのは住民であり、建築家は選手の息づかいに注意しながら伴走するコーチのようなもの。そんな思いで山本たちは課題にかじりついているように見える。