生命といのち
奈良 康明 なら・やすあき 2011年7月9日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
万物に「存在の価値」 [上]

 東日本大震災はひどい出来事だった。天災に人災が加わり、人々の生活基盤が崩壊した。家族を失った人も多い。私たちの心が痛んでいる。なくなった方の冥福を祈り、一日も早い復興を願っている。
 生命の尊いことは言うまでもない。モノや金は失われても回復できるが、生命は戻らない。人間の「生きる」ことの原点だし、それは他の動物たちも同様であろう。人間が生きものの生命をことさらに奪っていいものかどうか。これは文化の問題で世界各地域で事情は異なっている。


 インドでは伝統的に不殺生の徳が強く説かれ、今日に至っている。生きものを殺したくないという理由から菜食主義の人も少なくない。仏教では肉食は認めているが、ことさらに生きものの生命を奪うことは誡いましめられているし、放生会ほうじょうえの伝承も古い。捕獲された生きものを殺すことなく自然界に戻す習慣は、功徳を積む行為であるとともに、生きものの生命尊重の象徴的姿勢でもある。日本では神道にも取り入れられている。
 人間中心主義の西欧では放生会などという習慣はないのではないだろうか。『創世記』には神は人間を創り、空行く鳥、地を行く獣、水ゆく魚を「治めよ」(新共同訳)と言っている。人間が恣意しい的に動物を殺していいということではなく、それなりの宗教的背景がある言葉のようだが、しかし近代に至るまで、歴史的に、動植物そして自然を「征服」し、動物を人間利益のために殺すことを認める一つの根拠となっている。それだけに、動植物、自然を壊すことの弊害は早くから自覚されたし、環境問題への自覚が出てきたのも西欧が先である。


 先日、アメリカ人の青年と話す機会があった。どんな動物にも「生きる権利」があるし、そのライフ(生命)を奪う権利は人間にはない、だから自分は肉食をやめて菜食に切り替えた、と言う。それでは米や麦、野菜などのライフ(いのち)は奪っていいのか、と私は訊いたら、植物にライフはないから殺してかまわない、という議論になった。
 はしなくもここに西欧と東洋、日本の生命に関する意味内容の違いが浮き上がってきた。比較文化の問題として面白いし、実践上の問題もある。
 日本の文化伝承には「生命」と「いのち」と仮名で書く二つの「ライフ」(life)がある。英語で話しているとライフしかないから話がややこしい。日本人にとっては、漠然としてはいても、どんなものにも「いのち」がある、ということは理解しやすい。「いのち」は生命ではない。「ビール瓶にもいのちがある。そのいのちを大切にしてリサイクル」という新聞への投書も読んだことがある。


 かなり以前のことだが、感激したシーンに出会ったことがある。あるマンションの小さな花壇で幼児をあやしている若いお母さんがいた。花壇に足を踏み込み、花に手をかけた坊やに、母親は言った。「お花を折ると、お花ちゃんが痛い痛いって泣くわよ」。花に痛いと感じる神経があるかないかという話ではない。折りとられようとして「痛い」と感じるのは、花ではなく、母親の心である。植物にも人間的感情を及ぼす日本人的な情感といえよう。
 万物にいのちを認めるのは、おそらく、古代日本のアニミズムに根元があるのかもしれない。しかし、それ以上に中国の「自然」観の影響が強い物である。「自然」とは、英語のnatureではない。元来は「自おのずから然しかある」という形容詞で、人為の加わらない万物の在りようを示すものだった。中国人はそこに美的・宗教的価値を認めていた。万物があるがままの「在り方」に、いわば、「存在の価値」を認めていたのである。
 日本語の「いのち」とは万物の「在る」ことそのものの価値をいうものと言っていい。「もったいない」という言葉は、物事の経済的・実利的価値が無駄に失われることだけをいうのではない。存在の価値、いのちが無駄にうしなわれることをいうものである。

他者との深い関わり [下]

 普通に「生命」というと、科学に代表される客観的な分析、判断の対象、としての生命が意味されている。しかし、「私の生命」といったらどうだろう。それは端的に「私が生きる」ことに連なっているし、対象として説明できる生命をはるかに超える。私は他人、動植物、山川草木などすべてのものと関わっているし、一人だけでは存在し得ない。逆にいうなら、私たちはすべての他者存在に関わることによってのみ生きている。いや、生かされている。
 「生き生かされている」のは私だけではない。人間や動植物などすべての存在も他者との関わりのなかに在るにちがいない。そういう「生き、生かされ、そして生かして」いる存在であることを、すべては「いのち」をもっている、という。


 万物をこういう視点から見ることは、実は、最近の環境理論の主流をなしているディープ・エコロジーでも同様である。この運動のアメリカでのリーダーでもある詩人、ゲーリー・スナイダーは「石や草のlifeは完璧に美しく、本物であり賢明かつ価値あるものであることは、そう、アインシュタインのlifeに同じである」と言う。英語だからlifeとしか言いようがないが、訳せば「生命」ではなく「いのち」であろう。
 彼は日本滞在も長く、禅仏教の理解も深い人であるが、万物にいのちのあることを言い、その上で人間、動植物、自然との「深い交わり、関わり」を説く。他者のlifeを奪うことも深い交わりであり、自然界の「相互の贈り物の交換」だとしている。
 贈り物という表現の是非は別として、私たち人間は他者の生命ないしいのちを奪うことでしか生き得ない「業」のようなものがある。他に生きようがないのである。これをどう受け止めたらいいのか。仏教の不殺生戒にも関わる大きな問題なのだが、外国の二、三の例を拾ってみよう。
 アメリカ・インディアンは狩りをし動物の生命を奪う前に、その獣に対して「自分は生きるためにこの行為を為す」、そして「自分はこの行動に対する責任をすべて引き受ける覚悟がある」と言葉に出して語りかけると言う(北山耕平)。彼らには「すべては相互に依存しあっている」という理解があり、自分がその動物によって生きさせて貰もらっていることへの感謝と謝罪の思いがみて取れる。
 アフリカで医療行為に携わったシュバイツァー博士は黒人の生命を救うために病原菌(これも生命でしょう)を殺すのに「…犠牲になった生命に対する責任を担うことを自覚している」といい、さらに、ともに生きることは「どうしても常に他の生命を犠牲にして生きている」ことで、ともに苦しむことだという。


 サンフランシスコ禅センターは曹洞宗系の禅の教団であるが、そこから「動植物の許しを乞う儀式」を行ったという手紙(1990.5.10日付)がきた。その趣旨は、農場や山の道場での作業中に殺してしまった小動物、植物に「悲しみと哀悼の意を表する法要」を行い、「感謝と共に生きる覚悟を披歴した」という。そこでは殺した小動物、虫、植物などのいちいちに呼びかけ、いかに自分たちによって生命・いのちが奪われていったかを述べ、最後の回向えこう文にあたるところで、「我々は君たちに呼びかけ、感謝し、そして今後とも君たちから学び続けるだろう。この法要は君たちへのものだ。我々は君たちと共に、そして君たちのために修行をする覚悟である」と結んでいる。日系の禅センターだからこその儀礼かもしれないが、生命を奪う相手の立場に立っての、人間の側からの感謝と謝罪を表するのは旧来の西欧の考え方にはないものであろう。「不殺生戒」を守る一つの姿勢である。
 そして日本には、その生命・いのちを奪う相手への「供養」というユニークな象徴的儀礼がある。
 鰻うなぎ供養がその一例である。さんざん食べてしまってから、ごめんなさい、ありがとう、霊あらば安らかに眠れ、などという儀礼は西欧的な感覚からいうと、理解に苦しむものであろう。しかしこれは他者の生命、いのちを奪うことに対する私たち人間の哀かなしさを表明しているのである。鰻、鯨、鯉こいなどの生きものばかりではない。針供養から始まって筆、時計、鍬くわ、人形供養など、生命のないものへの供養もある。私たち人間のために「いのち」をすり減らしてくれたことへの感謝と報恩、懺悔ざんげの儀礼なのである。
「いのち」を大切にすることの意味をもっと深く考える必要がある。

なら・やすあき 1929年、千葉県生まれ。東大文学部卒、同修士課程終了、カルカッタ大博士課程留学。駒澤大前学長。現在は駒澤大名誉教授、(財)東方研究会常務理事。著書に『釈尊との対話』(日本放送出版協会)『禅の世界』(共編著、東京書籍)など多数。