親鸞と私
加藤 智見 かとう・ちけん 2011年5月28日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
念仏、となえさせていただく
救いの絆で結ばれて [上]

 真宗の寺に生まれ育った私は、小さい時からお経を習った。そして小学校ニ年の頃には、父の代理でご門徒のお宅にうかがうようになった。子供心にも、そのお宅の亡き方の冥福を祈って一生懸命に念仏をとなえ、お経をあげているつもりであった。
 しかし大学に入った頃、親鸞の門弟唯円ゆいえんが書いたといわれる『歎異抄たんにしょう』を読んで大変なショックを受けたのである。この書物は親鸞没後、親鸞が生前語った言葉を記し、異端的な信仰を批判したものであるが、その第五条に次のような文を見つけたからだ。「私親鸞は、亡き父母に親孝行するために追善供養の念仏をもうしたことなど一度もありません」(親鸞は父母ぶもの孝養きょうようのためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず)


 親鸞は子供の頃に母親を亡くした。だから親鸞も母を供養するためにひたすら念仏をとなえていたにちがいない、と私は勝手に思いこんでいたのである。一見親不孝にも思えることを、なぜ彼は言ったのであろうか、それが正しければ、私がしてきたことは間違っていたことになる。「おまえはとんでもない間違いをしているんだぞ」と責められているようで、目の前が真っ暗になってしまった。
 私は何度もこの第五条を読み、親鸞の真意を聞こうとした。その結果気づかされたのは、念仏とは自分の力でとなえ、その効力によって亡くなった人を供養するというようなものではないということだった。つまり念仏とは、仏さまご自身から「私を信じて私の名を呼びなさい、呼び、となえることによってあなたの心と私の心がつながり、一つ心になるから救われるのですよ」と願われ、与えられているものであったのだ。だからその願い(本願)に感謝し、これをいただき、となえさせていただくものなのである。念仏を道具にするのでなく、となえさせていただくことによってまず自分自身が救われていく、このことを亡き人々も喜んでくださり、われわれと共に救われていかれる、ここに念仏の真意があると気づかされたのである。それ以来、私は亡き人々と共に救われる喜びをかみしめながら、念仏をとなえ、お経をあげるようになった。
 ところでこの第五条には、私の大好きな文がある。それは「命あるものはすべて、はるか昔から何度も生まれかわり死にかわりする間に、私の父母であったり兄弟であったのです」(一切の有情うじょうは、みなもって世々生々せせしょうじょうの父母ぶも兄弟なり)という文である。自分に与えられた命をさかのぼっていくと、今では他人となっている人も父であり母であったかもしれないし、兄であり弟であったかもしれない…。


 象徴的な文であるから、それが事実なのかどうかは私には分からない。しかしこのように感じ、発想する親鸞に深いやさしさを感じ、心ひかれたのである。この言葉の裏には、それゆえすべての人々が念仏によって救われ、救いの絆で強く結ばれねばならないという彼の願いがこめられているはずだ。自分と他人の間に線を引き、警戒し合う現代の人間関係を根本的に考え直させる言葉であろう。
 最近、無縁社会ということがいわれ、「孤族」という言葉も出てきた。他人に「迷惑をかけたくない」「世話になりたくない」という理由で人間関係を拒否し、自分の世界に閉じこもる人が多くなったが、しょせん人間は一人では生きてはいけないし、今生きているということは無数のご縁によっているのである。であれば、縁ある方々に感謝し、念仏をとなえ合いつつ、孤独になったら遠慮なく世話になり、迷惑をかけてもよいのではないか。そして仏の願いに甘え、親鸞のやさしさに思い切り甘えればよいのだ。彼は「一人居て喜べば二人と思うべし、二人居て喜べば三人と思うべし、その一人は親鸞なり」と言った。この文を私は「一人居てさびしければ二人と思うべし、二人居てさびしければ三人と思うべし、その一人は親鸞なり」と読みかえ、心の糧にさせてもらっている。

大いなるもの
病室を浄土に変える [下]

 今、高齢者の問題はいよいよ深刻になっている。若い人にとっては高齢者の世話をすることが負担になり、高齢者にとっては若い人に迷惑をかけたくないという思いが強くなっているからだ。最近私は身をもって、この問題について考えるヒントを親鸞から学んだ。
 私事で恐縮であるが、昨年3月、私の母は3年間病院と介護施設のお世話になったのち、安らかに命を終えた。もともと骨折がきっかけで入院したのであるが、そのときからまったく飲食ができなくなってしまった。やがて骨折が治り、飲食ができるようにするため手術をしてもらったが、やはりできない。医学的にはできるはずだと医者はおっしゃったが、どうしてもできないので腸から栄養を送り、命を保つことになった。
 それからというもの、とめどない母の愚痴がはじまった。「お寺に生まれ、お寺に嫁ぎ、ずっと仏さまにお仕えしてきたのに、どうしてこんなことになってしまったのか」「早く死んでお浄土に行きたいから、家に連れて帰って、静かに死なせて」などと。会いに行くのも苦痛になってしまった。
 ところが半年ほどたったある日、病室に入った私の顔を見てにっこりとほほ笑み、「いろいろ迷惑をかけたわねえ。ここがお浄土だったのねえ。お水も飲めないし、ご飯もいただけないけど、こうして横になっているだけであなたたちの顔も見られるし、お見舞いにいただいた花の美しいこと。お浄土に生まれさせていただくというのはこのことだったのね。ありがたい」と、本当にうれしそうに話した。
 この言葉は、母の存在が負担になりかけていた私の気持ちを一気に振り払ってしまった。と同時に、親鸞の次の言葉を思い出させた。「信心がさだまるとき、浄土に生まれさせていただけるのだ。死を待つ必要はない」(信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎らいごうの儀式をまたず)(『末燈鈔まっとうしょう』)


 浄土とは単に死んでから行くところではない。従来は、来迎、つまり臨終の際に仏さまが迎えに来てくださり、はじめて浄土に導かれ、生まれることができると説かれてきたのであるが、親鸞は浄土に生まれるのは信心のさだまる時であると言い切ったのである。阿弥陀あみだ仏を信じ、心から念仏もうすことができたとき、仏の心とその人の心は一つの心となり、今、ここで浄土に生まれ、住まわせられるというのだ。
 母は、やっとこのことに気づかされたのである。だから病室にいながら、その病室がそのまま美しい浄土となり、救いの世界にいると実感できるようになったのだ。苦しみの世界が、そのまま仏と共に生きる喜びの世界に変わったのである。
 思わず私は心の中で、「母さん、よかったね。救っていただけたのだよ。今、ここがお浄土なのだよ。うれえしいねえ」と叫んでしまった。私の異持ちが伝わったのか、母の表情は一段と輝きを増したようだった。それから2年半、依然として肉体をもち、煩悩をもった身であるから時折愚痴は出たが、穏やかに過ごさせていただいた。母と会って話すのが楽しみになったし、その話の奥に長年生きて得た人生の智恵と信仰の深みを聞くこともできた。


 親を思わない子はいないと言ってよいだろう。しか塩屋に感謝できたり、親を尊敬できる間は親のことを思うことができても、ただ親が負担にしか感じられなくなったとき、親を避けたくなってしまうのも人間の偽らざる姿ではないだろうか。
 さらに高齢者の立場に立った場合、一昔前までは「死ぬ苦しみ」が中心問題であったが、今では医療の発達による負の結果として「死ねない苦しみ」という深刻な問題がおこってきた。悲しいことに、長生きでき、それを喜びつつも、やがて子の負担になり、避けられ、周囲の人々に迷惑がられるケースも多くなってきた。そんなとき、何か一つでよいからその人が若い人に見直され、大事にされる信念なり信仰といったものが、今、切に求められている、と私は思う。親を思う子、高齢者を思う若者の心の琴線に触れる何かが、今必要なのだ。
 母を避けはじめていた私に、親鸞の教えを学んできた母は、みずからの病態を通して苦しみを喜びに変える教えを学ばせてくれた。すでに初期高齢者となった私も、この学びの体験を通して若い世代の人々に何らかの貢献をしたいと思っている。

かとう・ちけん 1943年、愛知県尾西市(現一宮市)生まれ。早稲田大大学院哲学専攻博士課程終了。早稲田大・東京大講師を経て、東京工芸大教授。現在、同大名誉教授、同朋大こうし、愛知県一宮市・光専寺住職、学道塾主宰。著書に『親鸞の浄土を生きる』(大法輪閣)『図説あらすじでわかる!歎異抄』(青春出版社)など多数。