記憶を呼びさますもの
久保田 展弘 くぼた・のぶひろ 2011年5月14日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
揺れに浮かぶ樹間の道 [上]

 凄すさまじい地震にともなう大津波に襲われた宮城県各地。知人も多いその地の惨状を映しだすテレビを前に、普段思い出すこともない仙台市郊外の樹間の道が浮かび上がってきた。
 7月半ばのその日、二十歳はたちを前にした私は、生まれてはじめて逢ったその人と、もう30分以上も歩いていただろうか。互いに交わすことばもないまま、午後の葉群れの眩まぶしさだけを見上げていた。
 50年も前の、それも大津波による惨状とは似ても似つかない光景である。史上、稀まれに見る大災害。これを引き起こした信じ難い水の力が、仙台市郊外のいまを映しだしたときなぜか水の脅威に呼びさまされるようにして思い出された樹間の道を、私は生まれてはじめて逢う父と歩いていたのである。
 カウンターを前に、トンカツ定食を口にしていたときも、木の間の道を歩いていたときも、その人に尋ねたいことはいくらでもあった。が、その人がどこか私の問いを拒んでいることは気配でわかっていた。
 「それじゃあ……」と、車の往来が急に激しくなった交差点でその人と別れ、私はリュックサックを担かつぎ直し仙台駅へと向かった。もう二度と逢うことはないだろう。不思議な懐かしさと、その人が歩いて行くうしろ姿を見てはいけないという、おかしな思いが交錯していたのを思いだす。


 この日の前日まで、私は同じ宮城県の栗駒山(1,628メートル)の山麓さんろくにいた。当時、栗原郡志波姫村字刈敷しわひめむらあざかりしきが、父の生まれ育ったふる里であった。
 「お父さんは、あなたが生まれてまもなく病気で死んだのよ」。幼い私が母から聞いていたこのことばが、私の人生の出発点にあった。懸命に働きつづける母を間近に「生まれて間もなく父は死んだのだ」ということに疑いをもったことがない。
 だが19歳のある日、古い和ダンスを整理していた母が、引き出しの着物を持ち上げるその一瞬を偶然に見ていたことがある。そこに古い封筒が見えたのを忘れなかった。
 母のいない昼間、この封筒の差出人とその住所を、半ばうしろめたいような思いで書き写し、ノートのあいだに挟んでいた。
 私が母に告げることもなく家を出たのは、夏休みに入ってまもなくのことだった。封筒は亡き父からのものかもしれない。手紙の中身を見ないまま、確信めいた思いがあった。栗駒山の山麓に近いその家は、こんな自分の勘だけを頼りに目指し、たどり着いた父の生家で、そのころ、父の姉にあたる人が旧家を継いでいた。


 広い土間のある入口に立ったとき、すでに夜の7時をまわっていた。仄ほの暗い電灯の下にあらわれたその人は、私と目が合うなり、そこに硬直したように立ち尽くしていた。
 「なにも言わなくても分かった。弟にそっくりだった」。伯母にあたるその人は、私が部屋に座るなり、そう呟つぶやいた。しかもなんの前触れもなく、それも夜になって尋ねたその家で、私ははじめて逢ういとこたちと一週間の夏休みを過ごしたのである。そして8日目の朝、車で案内され、訪れたのが仙台だった。
 生きていま、仙台にいる。伯母のことばに、私は生きている父の姿を想像できないでいた。古い家の入口に近い洗面台を前に、ヒゲを剃る人が板。
 昼食をはさんで一時間半ほどだっただろうか。横浜に家庭があり、単身で仙台に暮らしているらしいその人のいまは、少ない会話を通してわかっていた。だがなぜ、日頃思いだすこともない50年も昔のことが、いまこんなふうにつぎつぎと甦よみがえってくるのだろうか。
 きのうまでなにを考え、なにをしようとしていたのか。この、誰にもある人間のいとなみが、一瞬にして砕け散ってしまうことがある。大災害を機に、私をぐらぐらと揺り動かすもの。それはブッダによる「世界は常ならないもの」という根本命題だった。

いのちの一瞬の輝き "無常" [下]

 2009年の4月、このときも私は記憶にある古い住所だけを頼りに47、8年ぶりで父のふる里を訪ねていた。むろん父が生きているとは思わなかった。だが、この前年の6月に岩手・宮城の内陸を襲った地震が気がかりだった。宮城県栗原市は震度6強と伝えられていたのである。
 東北新幹線が高架鉄道となって栗原市をつらぬき、あの、夜の駅頭の記憶しかない石越駅がどのあたりかもわからない。新しいくりこま高原駅が町を見下ろしている。駅頭に立ったこのときも、私ははじめての町を訪れるような思いでいた。
 駅前に拾い駐車場を備えたスーパーマーケットができ、ほとんど起伏のない野面の果てにうっすらと栗駒山が見える。被害の跡は見えないものの、地震のあと、山に近づく道路は封鎖されたままだった。しかし山はこんなに遠かったのだろうか。山麓にあると思いこんでいた父のふる里は、意外に新しい駅に近いのかもしれない。
 「まんず行ってみましょ」。昔の住所を示した私に、タクシーの運転手は笑みを浮かべ、あらためて私を見た。町中を流れる一迫いちはさま川の川岸から、いまでは畑地もあまり見えない、それでも古い農家の風情をのこす一画にいとこの住む家が逢った。
 午後の3時。人の気配のない庭を通りぬけようとすると近くで子どもの声が聞こえる。「おじいちゃんいる?」「あっち」。指さす庭の奥で軽トラックの荷台に立つ人がいる。「こんにちは」。目の前に現れた私に驚き、手を止めた彼は、こくりと頭を下げた。
 「50年近く前、夜、突然訪ねお世話になった久保田です」。普段、付き合いもない彼にこれで通じるわけがない。しかし彼にとって叔父にあたるその人の名を告げると「あぁ、あぁ」と口ごもりながら荷台を降りた。


 彼の母である伯母は20年ほど前に、私の父にあたるその人も12年前に横浜で亡くなっていたことが、そのときはじめてわかる。だが私がここを訪れたのは、大震災のあとの様子を知りたかったというより、地縁・血縁ともいうべき私の無意識の記憶が、地震を機にこの地へと導いていたのかもしれない。
 目が合うこともなく、まるで散歩の途中で道を分けるようにして別れた。それから30数年後の私の父の死は、あらためて私に、本当に二度と会うことはなかったのだという思いを突きつけていた。あのはじめての出会いのあと、語りかけることばも少なかった父は、私を思いだすことがあったのだろうか。
 2011年3月の大地震のニュースに宮城県、そして栗原市の名を目にしたとき、思いもかけず甦よみがえってきた50年前の樹間の道。忘れかけていたその光景が揺れている。
 だが、輪足を急きたてるようにしてつぎつぎと浮かび上がってくる、あの日の2時間にも満たない午後の日差しは、まるで現実の大惨事に呼びさまされるようにして、その意味を私に問うていた。
 いま、ここにこうして生きているといっても、人生という長い道程でとらえがちなこれも、実は一瞬一瞬のことではないか。50年前のあの出会いも、実感の湧かないままだった父という存在も、一瞬のいのちの姿だったのだ。
 8年前、92歳で生涯を終えた母の穏やかな死に顔が目に浮かぶ。働きづめで死の半年前に大腿だいたい骨の骨折が原因で寝込むまで私は母とまともに向き合うことがなかった。
 ベッドに横たわる、ひとまわり小さくなった母を前に「あなたにとって90余年の人生ってなんだったんだろうか」。他人行儀のこんな呟つぶやきが、いまは悔やまれてならない。だがこのときも、父との出会いが目に浮かぶことはなかった。仙台市郊外の樹間の道を、ただ葉群はむれを見上げて歩いていたことも、母には話さないままだった。
 そして2年前に訪れたときも、青葉城趾じょうしから望んだ大都市仙台の、どのあたりに樹間の道があるのか知る術すべもなかった。大津波から一カ月後の4月半ば、海につづくわずかに記憶に残る道は、すべてを打ち砕くように激変していた。


 だがすでに私のこころのうちに、樹間の道は穏やかに抽象化された風景となっていた。私の過去と現在を結ぶ道を、父がうしろ姿を見せ歩いていたのである。いのちが生まれ滅し、そして生まれ、いっ時の休みもない。仏教が説き続けた"無常"は、このいのちの一瞬の輝きを指しているにちがいない。

くぼた・のぶひろ 1941年、東京都生まれ。早稲田大卒。アジア宗教・分化研究所代表。専門は宗教学。著書に『さまよう死生観』(文春新書)『原日本の精神風土』(NTT出版)『仏教の身体感覚』(ちくま新書)など多数。