法華経を生きる
渡辺 宝陽 わたなべ・ほうよう 2010年4月3日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
京都町衆から深草元政へ 嵐の時代に風雅な人生 [上]

 仏典には、おおきな力が潜んでいる。僧俗を問わず、今日でも、毎日「法華経」を一生懸命に読誦どくじゅする方がおられることに感銘をおぼえるのである。「法華経」に生き、その教えの宣布に身を捧ささげた僧俗は数知れない。
 鎌倉時代に出現し、「法華経の行者」「地涌菩薩じゆぼさつの応現」として仰がれる日蓮聖人(1222~1282年)の行跡を慕い、激しく社会に教えを広める系譜は、今日にさまざまなすがたで伝えられるところである。そうした系譜に立ちながら、「法華律ほっけりつ」を求め、風雅な人生を送った深草元政ふかくさげんせい(1623~1668年)というひとりの僧がいる。あたかも3月18日が第343回目の忌日にあたる。
 東京帝国大学に宗教学科を創設した姉崎正治博士は、西欧に遊学し、その論著は諸宗教に及んでいるが、心友の高山樗牛の心を継ぎ、またドイツの学者に勧められるなどして、米国ハーバード大学出版部から、大正5(1916)年に英文の『仏教の予言者日蓮』を出版し、同時に日本語の『法華経の行者日蓮』(博文館)を出版して、洛陽の紙価を高めた。その姉崎博士が深草元政に傾倒して『彙編 草山詩集』などを編んだのであった。激しい日蓮聖人への畏敬いけいと同時に、元政に傾倒する僧俗が多くいるのである。


 ふりかえってみれば、時代はいつも転変する。明治維新に至る怒濤どとうのような時代の風景が、今、大河ドラマで放映されている。あの時代から百年余り。今も、世界各国は、そして私たちの日本社会も、さまざまな危機を内包し、自己を保持する道を求めることを余儀なくされている。一寸先は闇! というのが、政治担当者や企業経営者の思いであろうし、国民の心すべきことなのであろう。そうした事態に対処する心得は、嵐のような時代と、一見、波静かな時代とでは異ならざるを得ないのであろうか。
 室町時代、足利将軍に『立正治国論りっしょうちこくろん』建白して、牢屋ろうやに入れられ、焼けただれた鍋をかむせられたと伝える日親上人(1407~1488年)がいる。そのとき牢屋で出会ったのが本阿弥家の祖先であった。日親を懲らしめようと思ったのだが、逆に心服して、法華経信仰に帰依した。その家系から、あの有名な黒茶碗ちゃわん・赤茶碗などの作者として名高い本阿弥光悦(1558~1637年)が生まれた。
 本阿弥光悦が、家職の刀剣鑑定・磨礪まれい・ 浄拭じょうしきのほかに、絵画・蒔絵まきえ・製陶・茶道・作庭・嵯峨本の出版などに独創的な才能を発揮したことは知られるとおりである。光悦は、まさに信長・秀吉の天下統一の流れが徳川家康によって完成される時代社会に遭遇したといえよう。戦乱に明け暮れた京都を、平安時代の落ち着いた王朝の世にしたいと光悦が願ったのも無理はないであろう。光悦は家康から、願って盗賊の出没する洛北の地を拝領し、その地に芸術村を現実化し、四カ寺を建立して法華経修行の地としたのであった。今日の鷹峯たかがみねである。


 京都に生まれ、京都の環境に文化的素養を育成された深草元政が、、出家を志したのは、光悦に遅れること四半世紀の状況のなかのことであった。その清らかな生き方について中村真一郎は『雲のゆき来』(筑摩書房)という小説に託しつつ、元政を巧みに描き、元政の漢詩を高く評価して『古典を読む 江戸漢詩』(岩波書店)に収録している。また『江戸詩人選集』(1石川丈山/元政、岩波書店)もある。明治以降、実に多くの方々によって崇敬されてきた深草元政の墓は、元政庵と通称される洛南深草の瑞光寺にある。そこには遺言通りに、わずかに竹三千(竹三本)が標しるべとされている。

文人と交流、作善の修行 [下]

 洛南深草の瑞光寺は、今も江戸時代の雰囲気を宿す小庵あんである。深草元政げんせい(1623~1668年)は、京都に日蓮聖人の教えを初めて伝えた龍華日上人(1269~1342年)ゆかりの妙願寺の僧那そうな日豊上人を師として出家した。ところが元政が33歳の時に日豊上人が武蔵の池上本門寺(日蓮聖人終焉しゅうえんの霊跡=東京都大田区)の貫主(住職)に晋すすんだ。それを機会として、元政は深草に草庵を結び、必至に「法華律」の道に進むのである。そこに他門の律に飽き足らなかった僧が集って来たという。


 京都生まれの元政は幼少期から母に連れられて、京都の各地の風景を楽しみ、寺社を訪れた。また文学に秀ひいで、晩年には、父の遺骨を伴って、母を甲州の身延山久遠寺くおんじに誘い、ねんごろなる御回向を果たし、その旅行記を『身延道の記』として上梓じょうし。元和上皇から名文の書として嘉賞かしょうされた。その後、同書は想像を絶する版を重ねたのである。当然、多くの文化人との交流があった。
 熊沢蕃山は、中江藤樹のもとで学んだ高名な陽明学者で、岡山藩主池田光政に重用された人。石川丈山は、晩年には洛北の詩仙堂に閑居したが、漢詩人・書家として知られ、徳川家康に仕えた経歴を持つ。
 陳元贇ちんげんぴんは、中国=明みんから帰化した文人で陶芸にも秀で、尾張藩主に登用され、阿南陶器ふうの元贇焼をつくった。陳元贇と漢詩を楽しみ、編んだのが『元元唱和集』である。つまり、元政と元贇とが競い合った漢詩集である。


 元政は単なる文人ではなかった。その生涯は清らかに『法華経』に基づく修行生活で貫徹している。文化人と心の交わりを続けながら、法華経の行者日蓮聖人の境地に憧あこがれ、身延山をはじめ、各地の霊跡を訪ねた。そしてなによりも、日蓮聖人が教主釈尊に帰依した境地を求め、一体になろうとした。瑞光寺は今も茅葺かやぶきの小庵であるが、奉安される仏陀釈尊像の胎内には、彫刻した五臓六腑を収めてあるとのことである。今も生きているお姿として、釈尊像が拝されているのである。
 元政の多くの詩は、天台大師から伝えられ、日蓮聖人が法華経崇敬の基幹とした【事の一念三千】の教えを詠じている内容が多い。しかも、深草に庵を結んだと同時に、元政は『草山要路そうざんようろ』を著し、「法華律」の修行を展開することを宣言したのである。同書で、元政は仏教の基本である「戒かい」・「定じょう」・「慧」の三学を真摯しんしに自己のものとすることを求めたのである。周知のように、「戒」は仏教教団において重んじられ、自らを戒める律として具体的実践徳目となった。しかし元政は、細かく締め付けるのでは意欲的な仏道修行とはならないとして、止悪門を重んずるのではなく、作善門を重んじ、日常修行についての定めとしての戒を重んじた。


 やがて日々、月々のきめ細やかな「草山清規しんぎ」が、日資・月進・年規・齋儀・名分・家訓の六科として制定されるのは、真言律から草山元政の法華律の門に入り、後継者となった慧明日燈えみょうにっとう(1642~1717年)の手によるものであった。日燈は深草に移り住んだ段階から、元政の願う法華経に基づく清らかな修行生活の規範を、「法華律」として確定していったのである。<日資>は、日々の生活規律を定めたもの。早朝五更の太鼓(4~6時)起床。洗面 して浄手で袈裟けさを頂き鐘の合図とともに仏殿に入るのであるが、これらをきめ細かく定め、読経についても厳しく制定している。それにならって<月進>以下の綿密な行規が整えられた。通 常の日蓮系のおもむきとは異なる清規によって、いわば法華経の修道院が営まれたのである。元政の著作はつぎつぎと版行され、それらは『艸山集』(草山集)三十巻として編まれ、その遺墨も珍重されている。

わたなべ・ほうよう 1933年、東京都生まれ。立正大大学院博士課程修了。同大教授。同大学長。現在、同大名誉教授。東京・法立寺前住職。著書に『法華経・久遠の救い』『ブッダ永遠のいのちを説く』(以上NHK出版)『われら仏の子』(中央公論新社)など。