不安について
本田 弘之 ほんだ・ひろゆき 2010年3月20日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
断ち切らないで 大慈悲にお任せ

 文明社会といわれる現代の日本の都市に生活する市民は、なぜこんなに不安なのであろうか。電気・ガスなどのおかげで、夜も明るいし、冬も暖かな空間があり、夏には涼しい空気が送られてくる。経済生活のおかげで、世界中からの衣類や食物、家財道具すらも比較的安価で入手できるようになった。コンクリートのおかげで、大きな建築物の中に住居も仕事場も、さらには盛り場すらも用意されている。便利になり、欲しいものが手近にあり、交通機関も発達し、日常の生きていくために必要な事柄はたいてい満たされている。
 ところが、そこに生きている人間の心が満ち足りているかというと、決してそうではない。たしかに、生活の必要なことがらへの欲望は、たいがい充足されるのだが、そのためにかえって、心の底の空虚が見えにくくなっているのではなかろうか。実は「不安」は現代文明によっては決して満たされないし消すこともできないこころの奥の空虚に由来するのではなかろうか。こころの外側の部分は、経済生活で満たしていけるのであるが、こころの内側の深みに、見えない空虚があって、底は外側の「もの」では代替できない部分なのではないか。


 仏教に「五つの畏おそれ」ということがある。死の畏れ、堕地獄の畏れ、悪名の畏れ、不活の畏れ、大衆威徳の畏れである。この中の「不活の畏れ」とは、生活ができなくなるのではないか、ということへの不安感であろう。この不安感が現在の文明社会にじわじわと拡大しているようである。その他の畏れは、多分に精神的な不安感である。すぐ分かることだが、これらはすべて文明や物質的豊かさによって消滅させたり、削減したりできることがらではない。死は生者の必然であり、誰も避けることはできない。その結果、地獄に堕ちることを畏れるのは、罪業の結果に対するものである。生きていることに付帯する罪悪も因縁であることから、これから逃げられないことが恐ろしいのである。悪名とは、後ろ指を指されたり、面と向かって責任追求されたりして、他人から悪人と言われることへの畏れである。大衆威徳とは、大勢の人から受ける威圧感であろう。現代では、情報網が発達しメディアが動くので、この圧力を感じる立場の人には、見えざる大きなストレスが常時かかってくるのではなかろうか。
 つまり、人は人々の間に生きているし、寿命や生命力も有限であるし、思うようにならないことが多い。これらままならないことへの鬱憤うっぷんや人間関係のストレスは、どれほど文明が進もうとも本質的に消すことのできないものなのである。むしろ、人間同士が直接にふれあい語り合いぶつかり合うような時間が少なくなっている都市空間では、人間が孤独になり、存在の意味が不明になって、いのちの不安は増幅しているのではなかろうか。
 不安は、私たちの生活をおびやかしてくる。足元が掘り崩されているようなものである。これを乗り越えるにはどうしたらよいのであろうか。
 これらの不安をもよおす外的な条件を変えてこの不安をなくすことはできない。それなら、内的な自己自身の精神を変革すればよいのか。普通はそれしかないと思われるので、精神強化の鍛練とか、精神修養が求められる。しかし、例えば精神を鍛えて「死ぬ」ということを畏れないようにすることが、いのちの本来のありかたなのであろうか。


 人間は愚かで弱いものである。親鸞は煩悩ぼんのう具足の自己存在をそのまま許すような存在の自覚を求めたのである。それは、身体を鍛えるように精神をたたき直して、強い精神にすることではない。本質的に有限状況を生きていることを率直に認める態度になることである。それでどうして不安に耐えられるというのか。それには、有限の状況のすべてを大いなる大慈悲に信任して、自己の有限状況そのままをいただくのである。動きゆくこころをとめるのでなく、動くままにお任せするのである。それは不安を断ち切るのではなく、「不安に立つ」ということなのではないか。

ほんだ・ひろゆき 1938年、中国・黒龍江省生まれ。東京大農学部卒。大谷大助教授を経て、現在、親鸞仏教センター所長。真宗大谷派本龍寺住職。著書に『親鸞教学』(法蔵館)『浄土-濁世を超えて、濁世に立つ・全三巻』(樹心社)など。