日本人の宗教意識考
佐々木 宏幹 ささき・こうかん  2010年2月20日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「拝む」と「信じる」のあいだ 「信仰」の視点では問えず [上]

 ■「初詣」

 以前は正月の五日すぎに、テレビや新聞が「警察庁のまとめ」として三が日の初詣はつもうでの人出について報じるのが常であった。今年からは公表しないことになったそうで、今年の情報は掴つかんでいないが、昨年(二〇〇九年)の人出は過去最多の9939万人であったという(中日、東京新聞、09年1月9日付夕刊)。第一位が明治神宮、二位が成田山、三位が川崎大師という順序は変わらないようだ。
 それにしても、日本の総人口(約1億2500万人として)の約80%の人たちが各地の神社や仏閣を訪ねて柏手かしわでを打ち合掌して「拝んだ」という事実は、日本人の宗教意識または宗教心を考えるうえですこぶる興味深い。どうしてこのパーセンテージが興味深いと言えるか。
 各メディアや研究機関がときどき実施する「日本人の宗教意識調査」では、「あなたは宗教を信じていますか」の問いに「信じる」と答える人が20~25%、「信じない」と応じる人が75~80%であるという傾向が、過去数十年続いている。
 初詣に出かけて神仏を「拝んだ」人たちが総人口の約80%であるのに、他方「衆強を信じない」人たちが約80%である。
 これでは日本人の多くは「宗教は信じないが、神仏は拝む」人たちであるということになる。
 この宗教信仰と宗教行動の分裂現象をどう見たらよいのだろうか。


 ■「参拝」の意味

 私も正月には近くの神社に初詣に出かける。元旦と二日には参拝者の長蛇の列ができ、なかなか拝殿まで辿たどりつけない。そこで時間つぶしに前後左右の人たちに話しかける。私は頃ころ合いを見て次のような質問をすることがある。
「この神社の神さまをご存じですか」。ほとんどの人の答えは「さあ…」であり、ごくたまに「神話にでてくる神さまじゃないですか」というのがある。
 正解は日本武尊やまとたけるのみことと弟橘比売命おとたちばなひめのみことである。つまり人びとにとって大切なのは「神」または「神々」なのであり、その名称や由来、役割などは二の次、三の次であるのだ。
 「拝む対象は定かでないが拝まないではいられない」というのが一般の人びとの宗教意識の特色ではなかろうか。私の知り合いの母親は九十歳を超えているが、杖つえを突きながら初詣に行き、戻ってくると「ああ気が済んだ」と言い安堵あんどの表情を浮かべるという。
 このような人びとにたいして「信じるか」「信じないか」と訊たずねても、真の宗教意識を引きだすことはできまい。
 「信」か「不信」かの問いは、特別な人を除いて唯一絶対神を立てる一神教文化に生きる人びとにとってこそ有効であるのではかかろうか。


 ■「お盆」

 初詣と同じように日本人の多くが大挙して宗教行動をとるのはお盆である。
 「お盆にお墓参りをしますか」の問いに「する」と答えた人が78.3%であったという調査結果がある(読売新聞08年5月30日付朝刊)。「墓参り」約80%は「初詣」約80%と見事に対応する。
 このパーセンテージについて前者は仏教の信者、後者は神道の信者と見たのでは間違いとなろう。
 多分同一人が正月には「神」を、お盆には「仏」を拝んでいるというのが事実であろうからである。
 また墓参りをする人はある仏教宗派に属していることが多いが、宗派の本尊と墓に在おわす先祖の二者のうち、どちらに親近性をもつかとなると、私見では圧倒的に「ご先祖さま」である。この国の人びとにとってはご本尊さまもご先祖も等しく「仏ほとけ」と呼ばれる。とすれば、身内の仏(先祖)の方が「拝みやすい」対象であることは言うまでもあるまい。

「開運厄除」の願いについて 人知超えた「何事」か意識 [下]

 ■「拝む」内容とは

 前回では日本人の約80%が正月の初詣とお盆の墓参りに出かけると述べた。そして初詣では多くの人が拝む神(仏)の名前も性格、役割も知らずに祈りかつ願っているようだと記した。
 それでは人びとが拝む(祈願する)内容とは何であろうか。詳しく調べれば千差万別の実態が浮かび上がってこようが、神社が出している祈願についての知らせ(広告)を見ると、人びとのおおよその祈願内容が読みとれる。
 京都の例では「商売繁昌はんじょう・開運厄除・家内安全」(下鴨神社)、「厄除開運・必勝祈願」(石清水八幡宮)、「家内安全・開運厄除」(平安神宮)などがある(『サンデー毎日』2010年1月3、10日合併号)。
 上の広告から、人びとの神々への祈願内容が主に「開運厄除」の語で示されるものであることがわかる。「開運厄除」あるいは「厄除開運」、これこそが人びとの宗教的ニーズであることを神社は経験的に承知しているから上の広告を出すのである。この点は祈祷きとう寺院と称される仏教寺院についてもほぼ同様であると思う。
 「厄」は災厄であり、悩み、苦しみ、災いの現象でもある。その大小を問わず人は厄を完全に避けることはできない。
 個人的には病気や事故など、社会的には戦争や不景気、津波など、厄現象は人間史そのものであると言っていい。
 そして人間(人類)の文化・文明史は概してこの厄現象への対処の仕方であったとも言えよう。自然科学を含む諸科学はその典型である。中でもこの国は世界有数の科学国であり、そのお陰かげで他国に比較して生活は富み、世界一の長寿国になった。結果として厄は減少したか。ノーである。次々に新型の厄が出現しているからである。年々増加する念頭の「開運厄除」の願いは、その一つの証拠ではないか。


 ■「開運」とは

 「厄除」は厄払いとも言い、「厄」を払(祓はら)よけることであるが、厄と並んで重要なのが「運」である。
 「幸運」「不運」「非運」などの言葉がメディアに出ない日はない。「運」は「回めぐってくる吉凶の現象であり、幸・不幸、世の中の動きなどを支配する人知・人力の及ばないなりゆき」を意味する(『広辞苑』など)。
 現代の人びとは日常生活に生起する事柄を合理的に捉とらえ、これに対処しようとする。対処の仕方が好調であるとき、人びとは安心し「運」がいいと思う。ところが「運」は時に転変する。
 生活がやっと軌道に乗った途端に夫または妻が癌がんに冒おかされ、お先真っ暗になるということがある。また母が将来を託した一人息子(娘)が、いつ不慮の事故に遭い還かえらぬ人になるかわからない。逆に気慰みに街角で手に入れた一枚の宝くじが一瞬にして巨億の富に化すこともある。「人生はわからないことだらけ」の経験的事実を言語化したのが「運」であるとも言えよう。
 運が「人知・人力の及ばないなりゆき」であるとすると、このなりゆきを善い方向に転じさせるには当然人知・人力を超えたものの助けを借りなければならない。「開運」の願いである。
 かくして「厄除」と「開運」を願って人びとは人知・人力を超えたもの、「神仏」の下に雲集するのである。


 ■神仏とは

 さきに日本人の多くは、神や仏の名前も正体も知らずに拝みかつ祈っているのではないかと記した。その際「日本人のすべては」とはしなかった。人びとのなかには神と仏を峻別しゅんべつし、いずれかに「信仰的に」関かかわっている人が現にいるからである。その種の人びとにとっては運や厄に振り回される者は低俗な宗教意識の持ち主と映るかもしれない。
 にもかかわらずデータ的には、宗教を信じないと表白している80%の人びとが神仏に開運厄除の願いをこめているのも事実である。こういう人びとにとって神仏かみほとけはどう意識されているのであろうか。端的には西行法師が詠んだとされる「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」の「何事」が人びとの宗教意識を考える上で大きな示唆を与えてくれるように思う。

ささき・こうかん 1930年、宮城県生まれ。東京都立大(現首都大学東京)大学院博士課程修了。駒沢大名誉教授。専攻は宗教(文化)人類学。主な著書は『仏と霊の人類学』『仏力』(異常、春秋社)『シャーマニズムの人類学』(弘文堂)『<ほとけ>と力』(吉川弘文館)。