「私的なもの」をめぐって
鷲田 清一 大阪大学学長 2010年2月10日(土曜日)中日新聞「時のおもり」より
本当に自分だけのものか
|
隣の家が売りに出された。新しい住人は、木造の古い家を取り壊して新築するらしく、さっそく解体工事が始まった。その過程で問題が生じた。
わたしの家の屋根は隣に張りだしている。隣の家の屋根もわが敷地に張りだしている。たがいに敷地をはみだすことで、両家のすきまに雨水が溜たまらないようにとの知恵で、木造の古い家並みは維持されてきた。が、隣家は洋式に建て替えるということで、わが家の屋根の出っ張りをたしなめてこられた。私有地を侵犯しているというのである。
隣は敷地内に余裕をもって新家屋を造られるという。だから出っ張っているこちらの屋根を削り、くっついていた壁を剥はがさざるをえなくても、かかる費用はそちらでもてと主張なさる。
法律からすれば、たしかにそういうことなのだろう。が、それは承知で、こちらの都合で修理をしていただくわけですからとか、解体で音や埃ほこりをたててご迷惑をおかけしますからと、費用の半分か三分の一を新参者がもつというのが、長らくこの地域のならわしであった。が、新しいこのお隣さんにはそれが通用しない。こうしてたがいの家を護まもりあうという「文化」が、またひとつ、法律を盾に壊された。
恨みをここでくどくど述べるつもりはない。それよりも「私的所有権」というものの、この社会における過剰なまでの緻密ちみつさに、あらためて驚愕きょうがくしたのだ。この社会では物はことごとくだれかのものである。それを勝手に使えば犯罪になる。土地であれば、その所有権をめぐって数ミリ単位で争いが生じる。
一方でこのように「私的」な所有権が厳密に管理され、グレーということを許さない、神経症的ともいえる内向きの現実があるのに、他方で「私的」なものは際限なく公共の場に拡散しつつある。そのひとつ、有名人のスキャンダルは意に反して暴かれるものであるが、流行はやりのブログはひとびとが「秘されるべき」個人的目録を望んで公開するものである。最近では、一国の首相までが私的なつぶやきをツイッターに載せる。
正反対のベクトルをもった二つの現象。これは矛盾なのだろうか。それともひとつの現象の表裏なのだろうか。
私的なものがとても観念的なものになっているような気がしてならない。私的なものが排他的という意味と取り違えられているように思えてならないのだ。
わたしの所有物は、わたしが意のままにできるもの、意のままにしてよいものだという固定観念。でも、わたしの土地、わたしの身体は、ほんとうにわたしだけのものだろうか。
あるいは、「自分探し」という強迫観念。「わたし」という私的存在をめぐって、ひとびとは他人になくて自分にしかないものを探りあてないと自分が消えてなくなるという不安にあえいでいる。でも、自分が他のひとと同じようであってなぜいけないのだろうか。
あるいはさらに、「自立」という理念。「自立」というのは本当に他のひとに頼らずにすむこと、つまり「依存」(デペンデント)ではなく「独立」(インデペンデント)であるということをいうのだろうか。ちょっと考えればわかることだが、他人にまったく依存しないで生きてゆけるようなひとは存在しない。一からすべて自分ですることはだれにもできない。とすれば、「自立」とは、いざとなったらいつでも支えてもらえるような(インターデペンデントな)人的ネットワークをきちんともちえていることをいうのではないのか。
隣家との騒動のさなか、ふと思ったことである。