時間の不思議 無為の時間は長く感じる
一川 誠 いちかわ・まこと 2010年11月6日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
新奇な体験に挑んで
記憶される時を充実 [上]

 著者は、体験される時間の特性を実験心理学の手法で研究している。実験心理学では、自然科学的な実験によって心や行動のさまざまな特性を調べる方法論の体系である。
 これまでの研究が明らかにしてきたことは、我々が体験している時間は、時計などの道具を用いて計られる物理的な時間とずいぶん異なる特性を持つということである。
 たとえば、物理的な時間は、地球上の環境では、ほぼ一様に進行する。しかし、心的時間はさまざまな要因によってその長さや順序が変動する。日常の生活においても、同じ一分や一時間が、その過ごし方によってずいぶん違って感じられるという経験した読者も多いことだろう。また、思ったよりも時間が早く、あるいは、逆に遅く過ぎてしまい、困った経験をしたことのある読者も多いことだろう。これらの体験の多くも時間の錯覚によって引き起こされたものと考えられる。


 今週と来週の二回にわたって、実験心理学やその周辺分野の研究が明らかにしてきた心的時間の特性を解説し、さらに、豊かな時間を過ごすための方法や時計の時間との折り合いの付け方について提案してみようと思う。
 時間経過に注意を向ける頻度は、体験される時間の長さに影響を及ぼす要因の一つである。時間経過に注意を向ける回数が多いほど時間は長く感じられる。
 退屈な会議や授業など、早く終わらないかと時計に注意を向ける頻度が多くなりがちである。ところが、早く時間が経たないかと時間経過に注意を向ける回数が多くなるほど、意に反して、その間の時間が主観的に長くなるという皮肉なことが起こってしまう。退屈な時間を長くしないためには、時間経過に注意を向けることがないように、何か(会議や授業でなくても、「内職」でも良いだろう)に集中しなくてはいけない。
 することがなくただぼんやりと過ごすしかない「無為の時間」の間は、ついつい時間経過に注意が向きやすい。そのため、何もすることがない時間は実際よりも長く感じられることが多い。
 ある時間の間に体験される出来事の数は、時間の長さの感じ方に影響を及ぼすもう一つの要因である。同じ時間の長さであっても、体験される出来事の数が多いほど時間が長く感じられやすい。
 体験される出来事の数に関連して、リアルタイムにその時間を過ごしているときと、後になってその時間を記憶の中で辿たどる時とで、時間の長さの感じ方が異なることが知られている。たとえば、リアルタイムに過ごしていた時には長く感じていた「無為の時間」は、後になって記憶を辿ると、あっという間に過ぎ去った空虚な時間として思い出されやすい。なかなか時間が経たず苦痛に感じていた時間が、後になって思い出すととても短い時間としてしか記憶されていないというのも、体験される時間の皮肉な特性の一つと言える。


 いくら体験する出来事が多くても、時間に追われるほどいろんな予定を詰め込んでしまうことは、記憶される時間を充実させるには望ましくない。一つ一つの出来事を強く意識することがなければ、体験した事柄は長期にわたって記憶されずにすぐに忘れ去られてしまうからである。この場合、忙しいばかりであっという間に過ぎ去った時間として記憶されかねない。
 逆に、さまざまな事柄を体験して、思い出すエピソードが多い期間は、時間も長く、比較的充実した時間として記憶されやすい。
 したがって、生活を体験される時間の視点から充実したものにするためには、リアルタイムの実感としても記憶の上でも、新奇なイベントを忙しくない程度の頻度で持つような生活が向いているということになる。特に、新奇な体験は体験のエピソードを記憶しやすいので、新しい事柄にチャレンジすることも記憶される時間を充実させるのに有効だろう。
 読者の皆さんも試してみてはいかがだろう?

多くの錯覚
昼夜がズレる生活改めリズム見直す [下]

 今回は、人間の時間的特性と現代の生活環境が引き起こす問題について解説しよう。
 先週も解説したように、時間の感じ方には多くの錯覚がある。体験される時間の特性は、実際の物理的時間の特性とは一致しないことが多い。
 たとえば、読者は、目の前の出来事についてリアルタイムで見聞きしていることを疑ったことはないだろう。ところが、実際には、眼に光があたってから見えの体験が生じるまでに0.1秒ほどの遅れがある。聴覚も数十ミリ秒ほど遅れている。リアルタイムで見たり聞いたりしているという素朴な体験にも錯覚が関係しているのである。


 我々われわれの知覚には遅れがあるものの、注意を向けると知覚までの時間が少し短くなる。この注意による時間短縮によって、出来事の時間順序が実際とは異なって感じられるという錯覚が生じる。たとえば、二つの出来事が物理的には同時に起こった場合でも、注意を向けた方が他方より前に起こったように見えてしまう。注意だけではなく、空間内の位置などの要因によっても知覚のタイミングは変わる。
 タイミングについて多様な錯覚があること、知覚に遅れがあることは、人間の時間的制約とも言える。人間にこのような時間的制約があるということは、この程度の遅れやタイミングのズレは進化の過程で致命的な問題に発展することはほとんどなかったということでもあるだろう。
 ところが、人間は技術開発により高速の移動手段を手にした。我々は毎日、進化の過程で経験したことがないほどの高速度で移動している。この新しく創つくり出した生活環境では、人間の時間的制約が大きな問題に発展する潜在的危険性がある。
 現代の生活はまた別の時間的問題を引き起こしている。時計はただ一様なペースで時を刻むばかりであるが、体験される時間はさまざまな要因によってその長さや進むペースを変える。
 そうした要因の一つに身体の代謝がある。代謝が激しい時ほど時間が長く感じられやすい。同じ一分間でも、代謝の激しい時にはゆっくり過ぎるように感じられ、代謝が落ちている時にはすぐに過ぎるように感じられる。
 代謝は一日の内に周期的に変動している。通常、朝、起きてすぐの時間帯の代謝は低下しているが、時間がたつにつれ高まり、昼から夕方にかけてピークとなって、睡眠前に急激に低下する。
 このような代謝の日内変動によって、時間の長さの感じ方も変動する。代謝の低下する朝は時間がすぐに過ぎるように感じ、代謝の高まる午後にはゆっくり過ぎるように感じられることになる。朝と午後とでは同じ十分が違う長さに感じられることを読者も毎日体験されているのではないだろうか。
 認知的な課題を解決するのに必要な時間も一日のうちに変動する。ボタンの早押し問題のように筋運動をともなう課題は午後の遅い時間帯に成績が向上する。他方、数学の問題や論理問題などの成績は比較的遅い午前中にも良い成績が出やすい。
 身体の代謝やさまざまな活動性のこのような周期性は、脳の視床にある視交叉上核しこうさじょうかくにある身体時計の活動にもとづくものと考えられている。


 このように体験される時間はさまざまな要因によって変動する。このような体験される時間の特性を考慮すると、分刻みや秒刻みで時計の時間に合わせて行動するような生活を維持するのは人間には困難であることが分かる。
 また、人間は、技術の発展により、昼夜も変わらず活動できる生活環境を手に入れた。それにともない成人も児童も生活が夜型に移行していることが多くの調査で報告されている。このような生活パターンの変化には、技術の発展だけではなく利便性を追求する我々の欲望の結果でもあるのだろう。
 しかし、人間の身体と精神は、長い進化の過程で刻み込まれた時間限界や周期性を持っている。身体時計のリズムと合わない生活は、身体の老化を進め、精神的健康を損なう原因となることが知られている。時計の時間は時間帯によって特別な意味を持つことはないが、人間にとっての時間は時間帯によって固有の意味と価値を持つのである。
 知覚の遅れやタイミングの錯覚による潜在的危険や、一日の周期に合わない生活が心身の健康に及ぼす悪影響を考えると、健康で豊かな生活のためには、今いちど、数十億年の長い進化の過程を通して心身に刻み込まれている時間的制約やリズムに対応した生活の重要性を見直す必要があるように思われる。

いちかわ・まこと 1965年、宮崎県生まれ、大阪府で育つ。大阪市立大文学研究科後期過程修了。博士(文学)。カナダ・ニューヨーク大視覚研究所博士研究員、山口大工学部感性デザイン工学科講師、助教授を経て、現在は千葉大文学部行動科学科准教授。専門は実験心理学。実験的手法を用いて、人間の知覚・認知過程や感性の時空間的特性についての研究を行っている。