ことばの文化論
奈良 康明 なら・やすあき 2010年10月23日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「有り難う」を言わない
別のかたちで謝意を表現 [上]

 ことばは文化である。
 人間の同じ真理、情感も文化の差によって表現が異なっている。
 欧米の映画を見て感じるのだが、I love youとか、Do you love me?とかいうことばが盛んに使われている。日本語にも「私はあなたを愛する」という直訳はあるが、特に私のような年代の者には直接すぎて現実には使えない。今の若い人たちはそうでないのかもしれない。
 私はインドの宗教文化史を専攻しているし、インドでの滞在も長い。かなり以前のことだが、映画の週刊誌で、あるボードビリアンが「アメリカ映画とインド映画のラブシーンの差」を問われて、一言、「木」と答えていた。アメリカ映画ならヒーローとヒロインが抱き合ってキスしようとする盛り上がった場面で、インド映画には必ずそれを邪魔するものがでてくる。それを「木」と表現したもので、愛の直接的な表現は避けられている。


 「サンキュー」(そのインド語も含めて)という感謝のことばも米国人や日本人ほど「乱発」されない。日本なら有り難がとうということばが戻ってくるような時に、それが戻ってこない。別に御礼を言われたいわけではないが、しかし何かたたらを踏んだような違和感がある。どういうことかと不思議に思っていたら、次第に判わかってきた。
 ある時私は悪性のインフルエンザにかかった。親しい友人の家に引きとられて一週間世話になったのだが、インドでは親しい客人は家族と同じ待遇を受ける。だから私の友人の弟夫婦は私を「兄さん」と呼ぶし、兄夫婦は私を弟として遇する。反対に私は弟夫婦を名前で呼び捨てにするし、兄夫婦を「兄さん、姉さん」と呼ぶ。
 私の世話をしてくれたのが弟の嫁さんで、<兄さん、新聞よ、ご飯よ、お茶がはいったわよ>などと持ってきてくれる。その度たびに私はサンキュー、サンキューと言うのだが、彼女は何か不本意な、納得できないというような思いを動作ににじませる。私にはどういうことか判らない。
 やがて健康も回復し、明日は自宅に帰るという日のこと、家族みんなとお茶を飲んでいた。その席で彼女は「私はあなたを兄さんだと思ってつくしてきたつもりだが、何でああもサンキュー、サンキューと言うのか」と聞いてきた。質問の形だが、実は、彼女は怒っているのである。
 なんでサンキューと言ってはいけないの、と聞いたら彼女は答えた。「なんでサンキューと言わなければいけないんですか」


 話を交わし、またその後多くの友人たちとの交際の中で、次第に事情が判ってきた。インドでのサンキューということばは親しさに欠け、意味が軽いのである。前を行く人がハンカチか何かを落としたので拾ってあげた。そういう時にはサンキューというはっきりしたことばが返ってきて、あなたから受けた恩恵はこのことばでお返ししましたよ、というニュアンスがある。親しい人間関係の中で、年長者は年少者にサンキューとはまず言わない。師弟の間でも同様である。
 では感謝の念を表しないのか、というとそんなことはない。ご苦労さま、暑かったろう、などというねぎらいのことばで謝意が表されることもある。また忘れられない体験なのだが、私が指導教授に頼まれて本を図書館へ返してきた。先生は私の目をじっと見、微笑ほほえみながら、顔を少し横に振るインド的な「イエス」という動作をした。しかしサンキューということばは出てこない。ことばでは心が伝わらないという、ことばへの不信感がある。
 インドでの長い生活を通じて、私は少なくない日本の方から、「インド人は礼儀知らずだ、有り難うと御礼を言うことさえ知らない」という批判を聞いている。
 それはまちがっている。有り難うと言わない文化もあるのである。

こだわらずにこだわる
自由な見方で解決へ努力 [下]

 ことばは物事を全体的にとらえることができない。
 ここにコップがある。コップとは何かと問われたら、これは水を飲む道具だという機能の面からの答えがまず出てこよう。しかし、ガラスでできているという材料の面からも答えられるし、横から見たら台形で上から見たら円だと形から言うこともあろう。
 いずれも真実である。しかし、コップそのものを全的に言いきっているものではない。つまり、部分的真実なのである。それにいくら言葉で説明しても、説明された言葉で水は飲めない。「絵に描いた餅もち」というのもそういうことであろう。
 私たちがことばで何かを言うときには、その基となる観念(考え)がある。観念とは何かを見て知性で判断したものである。何かを見る、ということは私(主体)が見られるもの(ないし、こと)(客体)を見るのでつまり主客が分離しているならば、どこから「見ているか」という視座は無数にある道理だし、人それぞれに視座も知性も異なっている。だから、私はこう思うという判断とことばは人によって違ってあたり前なのであって、これを「十人十色」という。


 私たちが他人を評価するのも同様で、好意的に見るのか、否定的に見るのか、視座の置き方で評価は正反対にもなり得る。最近の厚生労働省の元局長さんの裁判にしても、当初は新聞の書き方でひどい役人だと思った。しかし事柄がはっきりして冤罪えんざいだったと判わかると、しっかりした方だな、と評価が異なってくる。評価とは常に相対的なものであることを知っておく必要があろう。
 自分自身の評価も同じようなもので、私ほど仕事のできる人間はいないと自惚うぬぼれることもあるし、私くらいどうしようもない人間はいないと絶望することもある。頭で考えて出してきた結論は、それなりの視座から見、導いてきた結論なのであって、それがすべてではない。別の見方はいくらでもある。日本では毎年三万人の自殺者があり、それがここ十二年続いているが、心痛む現象である。自分がこだわっているただひとつの結論をのりこえて、自由な広やかな見方をして、前向きに生きてもらえないだろうか。社会に生きているのだから、自分の思想をもち、主張するのは当然である。同時にそうした主張の性格も考えておかないと、いたずらにことばに振り回されることになる。
 仏教の開祖である釈尊ブッダの素晴らしい発言がある。世間にいろいろと論じられている教えや見解について
 彼らは議論好きで、集会に出て行っては相手を愚者だとみなし、それぞれが自分の師(の見解)を拠り所として論争する。自分こそが達人だと思い、賞賛されようと欲して議論する。(『スッタニパータ』825)
 人間の本性をよく言い当てている発言ではないだろうか。私たちは自分の考えを主張する。議論で負けまいと思って奮闘する。勝つと喜び、まけると口惜しい。だから釈尊はすぐ続いて、勝ち負けなど無用なことで、どうでもいいではないかとまで言う。


 誤解のないように言い添えておきたいのだが、私たちは現代の社会に生きていて、議論しないわけにはいかない。政治家は政策を議論するし、経営者は営業方針を議論する。議論するな、と言っているのではない。上の教えは、ことばによる主義主張は相対的なもので、これしかない、という絶対的なものではない。それを心得ておけ、というのである。議論して、それなりに正しい方向を見いだすのに、自分の主張する説にこだわるな、といっているのである。ひとつの説にこだわると不自由になり、他が見えなくなる。こだわりを捨てよう。しかし、それは議論している今の問題を無視することではない。あくまでも正しいと思われる結論は出さなければならない。
 こうした姿勢を仏典は「応無所住 而生其心」(『金剛般若経』)と言った。「まさに住するところなくして、しかもその心を生ずべし」と読む。つまり、こだわりをすてて自由に対応するが、しかし、その事柄の正しい解決への努力は忘れるな、というのである。
 ことばというものの正体をよくみて、「こだわらずにこだわれ」と言っているのである。

なら・やすあき 1929年生まれ。東大文学部卒、修士課程修了、カルカッタ大博士課程留学。文学博士。駒澤大学前学長および総長。現在、駒澤大名誉教授、財団法人・東方研究会常務理事。仏教文化史専攻。著書に『釈尊との対話』(日本放送出版協会)『仏教と人間』『般 若心経講義』(東京書籍)など多数。