「アーティスト」と「芸術家」
鷲田 清一 大阪大学学長 2010年10月20日(土曜日)中日新聞「時のおもり」より
「キャラ」か「務め」か?

「わたし、アーティストですから」という言い回しを、最近よく耳にする。若手の歌手やミュージシャンのひとたちがインタビューに応じて口にすることばだ。そんな口ぶりにとまどっていたら、こんどは、それこそ広くアーティストと認められている作家さんからじかに、「わたし、芸術家ですから」と言われた。
 私の言語感覚が古い、あるいは硬すぎるのかもしれないが、作家がみずからを「芸術家」と言ったとたんに「芸術家」でなくなるのではないか、との思いがつよい。
 絵はだれでも描く。映像はだれでも撮る。それを、画家もしくは映像作家として一つの仕事とすることに、疑念というか疾やましさというか、すぐには肯がえんじえないものを感じているところが、「芸術家」にはあったとおもう。おのれがそういう職業名で呼ばれることに。どこか居心地の悪さを感じてきちゃおうにおもう。


 「芸術」というものが、たとえば家族生活を犠牲にしても、あるいは戦争のさなかにでも、やりつづけなければならないものなのか。「芸術」にたしかな存在意味があるのか。自分がやっていることはほんとうに「芸術」なのか。じぶんが身を賭して取り組んでいるものについて、そういうふうに問いつづけ、それが「芸術」として存在しうるのかしえないのかのぎりぎりの稜線りょうせんに立ちつづけるのでなければ、「芸術家」ではない。そしてそこに同時に、<個>としてのみずからの存在根拠への問いをも巻き込んでいる。だから、「芸術家」という公的な職業名で呼ばれることに、どこか疾しさを感じる…。そんなふうにおもってきた。(同じことはたぶん「哲学者」についても言える。)
 職業は私的なものではない。公的といえば言い過ぎになるかもしれないが、他人のために身を砕くという面を外すことはできない。ひるがえって、「芸術家」はかならずしも他人のためになること、他人を歓よろこばせることをするわけではない。ときに他人が眼を背けたくなるものさえ創る。他者を歓ばすために「芸術」という訳の分からないものと格闘しているわけではないからである。この点で、タレントやエンターテーナーとは違う。
 とはいえ、「芸術家」が内に抱えている問題は、つねに私的なものではない。私的な問題を突きつめてゆくなかで、そこに陰りを生みだしている時代のさまざまな軋轢あつれき、時代の構造的な難題に突きあたることももちろんある。ワークショップというかたちでかれらが、作家としてではなく媒介者として地域住民のなかに分け入って活動することも、現代における「芸術」の境位をよく現している。


 「アーティスト」という語感、これが「芸術家」のそれと異なるのは、そう称するひとたちがみずからの活動を職業として意識しているからかもしれない。「芸術家」は、務めを内につよく感じているが、職業という外からの枠付けは拒む。できるなら「芸術家」の看板は揚げたくない。一方、「アーティスト」たちが職業と思っているものがほんとうに職業であるのかは疑いをはさむことができる。「務め」というよりもむしろ仲間内の「キャラ」としてそれが意識されている可能性がある。仲間内で、コミュニケーションスキルがきわだって高いということ、仲間よりうんと広い場所に出ているという幻想が、かれらをして「アーティスト」と称させる理由になっている可能性がある。だから、あっさりと下りることもできる。これに対して、務めはそこからは容易に下りられないものである。この差は意外に大きいとおもう。