言葉と空 ギリシャとインドを中心に
定方 晃 さだかた・あきら 2010年10月9日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
両者とも似た思想
帰謬法を用い「不生不滅」説明 [上]

 西紀前の世界で哲学的才能を発揮した民族にギリシャ人とインド人がいる。ともに印欧語民族であるせいか両者はしばしば似た思想を展開する。
 ギリシャのヘラクレイトスは「万物は流転する」といった。インドの小乗仏教は「諸行無常」を説いた。つぎの段階になると、ギリシャではパルメニデスが、インドでは大乗仏教が「不生不滅」を説いた。
 パルメニデスによれば「真にあるといえるものは連続一体・不生不滅で、変化もしなければ運動もしない全体であり、運動、変化、多は人間の思いなしにすぎない」。大乗仏教では般若経典が「不生不滅」を説いた。この「不生不滅」が意味するのは、特別なもの(神、プラトンの「イデア」等)だけがそうだというのではなく、そもそも生滅というものが存在しないということである。
 このことを論理をもって証明したのがギリシャのゼノンとインドのナーガールジュナ(龍樹)である。パルメニデスの弟子ゼノンは師の説に反対するものに対して、帰謬きびゅう法を用いて対抗した。かれはいった。もし多を認めるならアキレスが亀に追いつけないというおかしな結論が生じますよ。多であれば、距離は分割できる。いま亀のあとからアキレスが出発する。アキレスが亀のいる位置に達するまでに、亀は何ほどか前進している。アキレスが亀の新しい位置に達するまでに、亀はまたしても何ほどか前進している。このようにして、アキレスは永遠に亀に追いつけないということになる、と。


このパラドックスは「もし多を認めるなら」という前提が省かれて紹介されるために、ゼノンは誤っているといわれることが多いが、これは帰謬法なのであり、ゼノンはアキレスは亀を追い越せないと考えているのではない。
 インドではナーガールジュナが帰謬法を用いて「不生不滅」を説明した。生じることがあるとすれば、自らより生じるか、他から生じるか、無より生じるかである。かれはそのいずれもが成立しないことを示して、「不生不滅」を説くのであるが、ここでは青目しょうもくの注釈を紹介しておこう。
 ひとは「種から芽が出る」という表現に何の疑いもいだかない。しかし、これを「穴から蛇が出る」という表現とくらべてみよう。文法的構造は同じである。後者の場合、穴から蛇が出ても、穴は依然として穴として存在する。では前者の場合、同じように種から芽が出ても、種は依然として種として存在するか。そんなことはない。それにもかかわらず、ひとが「種から芽が出る」という言い方をするのは、ひとが無意識のうちに種と芽をそれぞれ独立した存在とみなしているからである。種や芽は言葉として独立しているにすぎない。このことを悟るのが空を悟るということである。


 「芽が出る」についても考えてみよう。ひとは芽が出る現象を見て、「芽が出る」という。かれが「芽」という言葉を発するとき、かれの脳裏には「出る芽」のイメージがすでに存在する。それにもかかわらず、かれは「出る」とは関係のない「芽」をまず想定して、それに「出る」を加える。
 現象は全一なもので、「芽」と「出る」を分けることはできない。しかし、それを他人に伝えるとき、「芽」と「出る」(主語と述語)に分けなければならない。この言葉の受け手は分割されて届く情報を組み立てて全一な現象を復元する。電信での信号のやりとりに似ている。これは情報伝達の宿命なのかもしれない。
 ゼノンの論証とナーガールジュナの論証を比較すると、前者は幾何学に、後者は文法学に関連する。問題の根本は言葉にあるので、後者の方がすぐれている。

真理を伝える道具
対話により悟りの世界へ導く [下]

  キリスト教のヨハネ伝に「初めに言葉ありき」とある。この「初め」を人間文化の初めと考えるなら、まことに至言である。人間は言葉の出現以来、言葉にがんじがらめにされて生きてきた。人間のいわゆる世界は言葉が造り上げた世界にすぎない。人間以外の生物には別の世界がある。キリスト教は言葉が存在する以前の世界への視野を欠いているのである。
 キリスト教に影響を与えたといわれるプラトンの思想にも言葉の絶対視がある。地上に完全な三角は存在しないが、われわれがそれを考えることができるのは、われわれがかつて生きていたイデアの世界のイデア(三角のイデア等)を記憶しているからだという。イデアは言葉(概念)といい換えてよいだろう。インドでは逆に、言葉は虚構であるという考えが出現した。


 西紀前二世紀にガンダーラ地方をメナンドロスというギリシャ人の王が統治していた。かれは仏教の高僧ナーガセーナに仏教の教義を聞いた。王は「仏教はとかく言葉が多いので簡潔に答えてほしい」と念を押したうえで、「霊魂は肉体と一体ですか、別体ですか」と尋ねた。僧は答えた。「それには答えないことになっております」。王は不満であった。僧はいった。「王はとかく言葉が多いので簡潔に答えてほしい。王宮のマンゴー樹の実は甘いですか、苦いですか」。王がいった。「王宮にはマンゴー樹はありません。あなたの質問には答えようがありません」。僧がいった。「霊魂というものはありません。王の質問には答えようがありません」
 達磨だるま大師が坐禅しているところへ、慧可えかがやってきて、「私の心は不安です。どうか安心させてください」といった。達磨は「よろしい、心をもってきなさい」。慧可はしばらくしてからやってきて、「心が見つかりませんでした」といった。達磨はいった。「よろしい、汝なんじの心を安心させ終わった」(『無門関』四十一)


 これらのエピソードはひとが実態のない言葉にいかにふりまわされているかを示している。しかし、だからといってナーガールジュナ(龍樹)は言葉を使わないのではない。「言葉を使わなければ、真理を伝えることはできない」(『中論』観四諦品かんしたいぼん、第十偈)から、あえて言葉を使う。だが、使い方には工夫がいる。それが帰謬きびゅう法である。言葉で完全に真理を伝達することは不可能なので、相手と言葉を交わすことによって相手が自ら真理を体得するように仕向けるのである。アリストテレスはゼノンを「ディアレクティケー(対話法)の創始者」と評したが、帰謬法はディアレクティケーの一種である。
 あるとき菩薩ぼさつたちが「不二を体得する」とはどういうことかを論じあった。ある菩薩がいった。「生と滅を二とします。ものは生じることも滅することもない。これを悟ることが不二を体得することです」
 この種の発言が続いたあと、文殊がいった。「一切の法(存在、真理)は言葉を超えています。議論を離れること、これが不二を体得することです」
 文殊は維摩ゆいまにいった。「さあ、あなたの番です。不二を体得するとはどういうことですか」
 維摩は黙然としていた。それを見た文殊はいった。「すばらしい、すばらしい。あなたは不二を体得することを最もよく説明した」
 維摩の沈黙は、それだけを見れば、痴人の沈黙と区別がつかない。この沈黙が生きるのは、その前に一連の問答があるからである。これがディアレクティケーの意義である。
 言葉が道具(手段)であることを仏教は筏いかだのたとえで示す。ブッダの言葉は、荒海に喩たとえられるこの世から、彼岸に喩えられる悟りの世界に渡るための筏に喩えられる。大乗仏教は渡り終えてもなお筏をかつぎまわる愚をいましめている。(ウィトゲンシュタインは同様のことを「梯子はしごを捨てよ)という言葉で教えている。

さだかた・あきら 1936年、東京生まれ。東京大教養学部卒、同大大学院印度哲学博士課程修了。文学博士。東海大専任教員などを経て現在、東海大名誉教授。著書に『須弥山と極楽』『空と無我』(講談社現代新書)『インド宇宙誌』(春秋社)など。