アニミズム復興
正木 晃 まさき・あきら 2010年9月25日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
"聖なる自然"を礼賛
映画『アバター』の一神教批判 [上]

 アニミズムという言葉をご存じだろうか。語源は、ラテン語で霊魂や生命を意味するアニマである。身近な英語でいえば、アニメーション(生命ある絵=動画)やアニマル(霊魂のあるもの=動物)と、語源が共通する。
 そのアニマに、信仰や思想を意味するイズムをつけるとアニミズムという宗教学の用語になる。学術上の厳密な定義はさておき、わかりやすく説明すると、森羅万象ことごとくに霊魂が宿っているとみなす信仰もしくは思想をさす。別の表現をつかえば、大自然は聖なるものに満たされているという考えだ。
 日本仏教の伝統に類例をもとめれば、「山川草木悉皆成仏さんせんそうもくしっかいじょうぶつ」がごく近い。つまり人間のみならず、この世の自然すべてが成仏できるという自然観である。あるいは「一寸の虫にも五分の魂」という表現につながる生命観である。ちなみにこういう発想は、仏教の本家本元のインドにはなかった。日本仏教の創造といっていい。


 しかしかつてアニミズムは、人類の精神的ないとなみとしては原始的で、非常にレベルが低いとみなされていた。理由は、一種の宗教進化論ともよぶべき考え方がまかりとおってきたからだ。
 そこでは、こう主張されがちだった。アニミズムやシャーマニズム(霊能者を媒介として聖なるものと交流する宗教)のような最低の宗教から、やがてもう少し高級な多神教に発展し、最終的には一神教に発展する。その一神教でもキリスト教がいちばん高尚で、さらに同じキリスト教でもカトリックよりプロテスタントの方が偉い……。
 ところが昨今、アニミズムに対する評価が一変しつつある。その証拠の一つが、『アバター』である。この映画では、金儲もうけのためならどんなことでもしてしまう強欲資本主義と、大自然のなかに聖なるものを見いだすアニミズムが、けっしてまじわりえない対立項として、最新の3D技術をはじめ、SFファンタジーの手法を縦横に駆使しつつ描かれている。
 キャメロン監督の意図はすこぶる明瞭めいりょうだ。全編これアニミズム礼賛に終始する。なぜそこまでアニミズムを礼賛する映画を制作したのか?この問いに対し、キャメロン監督はこう答えている。キリスト教のような一神教とそれにもとづく強欲資本主義、そしてその権化にほかならないアメリカの政治・経済・文化を批判するためだ……。


 事実、『アバター』の大ヒットに、アメリカの保守派やキリスト教会がつよい不満を表明している。とりわけキリスト教会は、『アバター』の世界観が汎神はんしん論に立脚しているというので、いたくご機嫌斜めらしい。汎神論は、この世の中に神がいて、森羅万象はすべて神の現れにほかならないという考え方だ。当然ながら、アニミズムとはすこぶる相性がよい。
 いっぽう一神教では、この世界は唯一の神によって創造されたことになっているので、世界創造の前に神がいなければならないし、イエスのように時間限定でこの世に出現した例をのぞけば、神は原則として世界の外にいなければならない。したがって汎神論は絶対に認められない。
 さらに一神教では、旧約聖書に「神はその形の如ごとくに人をつくり……、生めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。(創世記1)」と書かれているとおり、世界は人間の支配にゆだねられている。その結果がこんにちの環境破壊につながってしまったとしたら、キャメロン監督ならずとも批判したくなる。
 逆にもしこの世界が、アニミズムが説くように、聖なるものに満ちているとすれば、人間が勝手放題にしていいはずがない。キャメロン監督がアニミズムをきわめて好意的に描き出した理由はこのあたりにあるようだ。ただしそのアニミズムも良いところばかりではない。致命的な弱点がある。

宗教哲学のプラスαを
自然環境悪化を生き抜く規範 [下]

 前回(9月25日)はアニミズムの復興を、映画『アバター』を題材に論じた。その末尾に私は「アニミズムにも致命的な弱点がある」と述べた。今回はその実態と対策を論じたい。
 アニミズムの特徴の一つは、地域の環境に深く根ざしている点にある。この点はかつては長所だったが、今では短所になりかねない。現代社会ではどこでも人々の活動範囲が以前とは比べものにならないくらい広がっていて、その地域がその地域だけでは存立していけなくなってしまっている。アニミズムは、そういう事態に対応しきれない。
 またアニミズムは一神教に比べれば経済観念が未熟だ。未熟な経済観念のまま、のっぴきならない近代化という事態に遭遇したとき、無謀な近代化への道を選択しがちだ。
 そうなると、ことは厄介である。地域の自然環境が悪化する→アニミズムが弱体化する→自然にたいする敬意が失われる→開発がさらにすすむ→地域の自然環境が破壊される→アニミズムが壊滅する→……というぐあいに、負のスパイラルが起こってしまう。
 こういうアニミズムの弱点について早くから見抜いてきた人物がいる。宮崎駿氏である。


 いわゆる宮崎アニメはかなり早い段階から、アニミズムを陰に陽に描きつづけてきた。代表作をあげれば、『風の谷のナウシカ』からはじまって、『もののけ姫』をへて、最新作の『借りぐらしのアリエッティ』まで、この点はずっとつらぬかれている。
 『アバター』は最終局面でアニミズムと強欲資本主義のあいだに熾烈しれつな戦いが起こり、アニミズムが勝利をおさめて、とりあえずハッピーエンドになる。しかし現実の世界ではアニミズムは連戦連敗の歴史だった。このあたり、キャメロン監督はやや甘い気がする。
 宮崎アニメの場合、アニミズムが勝利する結末はまずない。『もののけ姫』の主人公二人は愛し合いながらも、森とたたら場に別れて暮らすことになる。『借りぐらしのアリエッティ』でもアリエッティの一家は住みなれた家を出て行かざるをえなくなる。宮崎駿氏はアニミズムの価値を高く評価しつつも、その行く末を楽観はしていないのだろう。
 では、こういう弱点をもつアニミズムは、これからどうなっていくのだろう。まことに残念だが、今後、純粋なアニミズムが生き残れる可能性はひじょうに低い。ほとんどのアニミズムは絶滅するしかない。たとえ生き残れたとしても、せいぜいノスタルジーかファンタジーとして、人々の心のなかに生き残るのが精一杯だろう。


 では、どうしたら良いのか。その答えは、アニミズムに、環境の変化や歴史の変遷にもちこたえられるような、しっかりとした宗教哲学の骨格を、+αプラスアルファとして、組み込むことだ。組み込まれるべき骨格は、私が見るところ、大乗仏教のほかには見出しがたい。
 そしてそれをすでに果たしたものが、日本の伝統宗教の中にある。じつは日本仏教の宗派は、ごく一部の宗派をのぞけば、アニミズムと親しい関係にある。前回もふれた「山川草木悉皆成仏さんせんそうもくしっかいじょうぶつ」という文言がその証拠になる。
 空海は「草木また成ず」といい、道元にいたっては「瓦礫がりゃく成仏」とまで述べている。空海と道元がともに最高の宗教哲学者だった事実はいまさら指摘するまでもない。
 神道はそもそもアニミズムに立脚していることにくわえ、仏教徒の長きにわたる蜜月をとおして、しっかりとした宗教哲学の骨格をもちえている。
 さらに神と仏を同等にあがめてきた修験道にはアニミズムと大乗仏教の理念をたくみに融合させてきた歴史がある。もっともこういうタイプの宗教は近代化以降の日本では、低い評価しかあたえられてこなかった。不純だというのである。そこには、一神教によく似て純粋志向の宗教がレベルの高い宗教、そうでない宗教はレベルの低い宗教という価値基準がわだかまっている。
 しかしそういう価値基準はもはや無意味といっていい。今は、自然のなかに聖なるものを見出し、かつそれを宗教哲学的にきちんと位置づけ、私たちの行動の規範とすることができるかできないかという点こそ、重要なのだ。そうしなければ、地球環境は早晩、崩壊する。それを可能とする日本の「アニミズム+α型」伝統宗教に、ぜひ注目していただきたい。

まさき・あきら 1953年、神奈川県生まれ。筑波大大学院博士課程修了。中共女子大助教授などを経て現在、慶応大、立正大非常勤講師。専門は日本・チベット宗教。著書に『はじめての宗教学』(春秋社)『立派な死』(文芸春秋)など多数。