仏教再生 課題とその問題点
藤井 正雄 ふじい・まさお  2010年1月23日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
最後の機能「葬式仏教」から現代人救済に立ち戻れ [上]

 テーマとなっている「仏教再生」には「仏教のよみがえり」という意味がある。その意味からすると、現代の日本仏教は少なくとも現代とは「逸脱」「乖離かいり」していることになる。いうならば現代と乖離した状態から本来の救済を目指した仏教に立ち戻すためにどんな努力をすべきか、にかかわってくることになる。
 日本仏教は政治に従属した歴史を有している。仏教寺院の経済基盤は「家」にあり、上部構造は祖先崇拝である。祖先崇拝は「家」によって支えられていることはいうまでもない。江戸幕府は「寺請てらうけ制度」を設けた。それによって、人々は葬祭を介して寺院と寺壇じだん関係を結んだ。島原の乱の後、改宗したキリシタンの宗門改めがおこなわれたのが最初であり、それと共に1664(寛文四)年には全国一律に寺壇関係が制度として確立した。
 初期のころは離壇は自由であったが、その後は違法とされた。1665(寛文五)年には、「寺院法度はっと」が出て、本末制度・寺壇制度による寺院の権力を抑える寺院統制を全面的に打ち出した。寺壇制度は、本格的に明治維新で法的抗力を失ったが、逆に家族制度が強化されて、家族制度が寺壇制度を補強する作用をなして今日まで伝えられてきたことは誰もが知るところである。
 現代仏教は「葬式仏教」と揶揄やゆされていることはよく知られている。教義仏教が神道・儒教・道教と習合してきた葬式は、歴史的産物としての習俗であった。いいかえれば、読み・書き・ソロバンとして知られる寺子屋は明治五年、学制発布により教育を譲り渡して、寺院に残された機能は、葬式だけになった経緯を踏んでいる。最後の砦とりでとなった葬祭ですら批判の対象になったのである。


 概して宗教は社会変動とともに変化する。数学的名辞を借りるならば、宗教は社会変動の「従属変数」であったのである。仏教も同様であった。葬式にも内側に変化があった。葬祭に僧侶は不要であるとする「直葬ちょくそう」である。首都圏では、三、四割がそうだという。
 「直葬」といっても、内容は千差万別で、火葬だけをして郷里の菩提ぼだい寺で葬式をする場合もある。「直葬」は大きく分けて、菩提寺のある場合とない場合とがある。
 菩提寺のある場合は檀徒の強化の不足の賜物である。菩提寺のない場合がむしろ問題である。
 「直葬」はとくに宗教浮動人口に及んでいると聞くからである。宗教浮動人口とは、慣習的に伝えられてきた旧寺壇関係・氏子関係が、農村から都市へ、または農村・都市から他の農村・都市への移動によって切り離され、特定の寺院・神社とは無関係な状態に置かれた人口の意味に用いる。私がここで言いたかったことは、第二次世界大戦のころは次・三男の超過人口放出型であったが、現代問題になってきたのは帰農という安全弁が断ち切られた一方通行型に変わっていることである。
 しかも、心理的には個人の解放、自由を求めての頑かたくなな家父長的な家族構成、煩瑣はんさな本分家関係、閉鎖的な村落共同体からの脱出、経済的には都市と農村との間に存在する同一労働に対する賃金の格差などがあり、生態学的には交通・情報・教育機関の集積による合理化、便利さがあるといった特徴をもっている。


 そんなところに、面識もない都市の寺院・僧侶を求める必要がない。しかも高齢少子化の波が押し寄せると、家族に迷惑をかけまいとする価値観の微妙な変化が「直葬」を生んだことになる。同様に高齢になるにともない社会的地位が上がり共同体の枠を超えて葬祭が派手になってくるとともに「温かみのある」葬祭を求めて、義理・人情からの参列者を廃した「家族葬」を生んだのである。
 仏教の再生問題は「仏教を独立変数にすればよい」はずなのに、簡単にはいかないのである。現代人は病んでいる。物事に「なぜ」という問いを発しないのである。

東洋・西洋の死生観を統合 衆生の苦を自らの苦に [下]

 前回で「仏教再生」の問題点として、仏教は社会変動の従属変数であったことを挙げた。次の問題点として、仏教の生死観に変化があることは無視できない。仏教では「生死しょうじ」というが、一般には「死生」といった方がいいかもしれない。
 現代人の死生観の特徴は、端的にいって死の外在化、私事化、多様化と捉とらえることができるが、これらの特徴は、大きく分けると、次の五種に分類することが可能であろう。1.点として医師の判定による『臨床死』2.プロセスとして細胞活動の停止をいう『生物学的死』3.コミュニケーションの可能な、円環の一つとしての『民族的死ないし生活仏教の死』4.生活の場で地位・役割喪失といった疑似死、死後社会的に影響力をもつ死を含む『社会的死』5.生死を超えた『宗教的死』で、それぞれ 1.法律的死 2.生物学的死 3.文化的死 4.社会的死 5.宗教的死、と置き換えてもいい。
 さて、さらにこれを死生観の指標と絡めてみると、有限的な、直線的死生観と、永遠的な、円環的死生観に二分することができる。この二分化された死生観のなかで、前者の死生観が発展し続け伝統的な後者の死生観を圧迫しているところに現代は特徴づけられる。


 現代の合理論は17世紀に物心二元論を展開したデカルト(1596~1650年)に始まるが、現代をどう捉えるかは人によって異なる。ものを水平的に並べて思考する構造とものを垂直的に一つのものとして論ずる構造とがある。仏法は「人間成就の法」とも言われるように、はじめに深く自己凝視に始まり、次第に人現凝視へと移っていく。ものを一つに並べずに垂直的に考えていくのである。ものを例えば「煩悩即菩提ぼだい」「生死即涅槃ねはん」というようにものを対立的に、水平的に捉えずに垂直的に捉える「即」の論理をもっているといえる。「煩悩即菩提」とは、我々は煩悩に満ち満ちているからこそ菩提(さとりの智慧ちえ)を求めることになる。
 よく子供と大人を比較しているケースに喩たとえると、子供は時間の経過とともに大人になっていくという意味で、垂直的な思考は今もって大切である。いうならば煩悩は菩提を求める縁になるべきであろうと言い換えた方がいいかもしれない。「生死即涅槃」も同様に考えられる。コンピューター思考から離れて東洋的な思考でもってものを考えて言葉を変えて表現すれば、東洋的思考論理は、ものごとを西洋の思考論理と異なって水平的に処理するのではなく、垂直的にものごとを思考するものとみたい。この両者の考え方の一方に固執すれば、対立を生むだけで問題の解決に繋つながってこない。両思考を統合的に捉え、両思考が相補関係にたってこそ、現代の合理思考に対応し得る健全な思考力を構成するものとみたい。両思考を相対立して捉えるのではなく、両者を統合的に捉えることが求められていると言ってもいい。


 現代死語になっている「仏間」は、仏壇のある部屋である。様々な統計調査は仏壇や神棚を購入する新家族人口が減少していることを伝えている。今でもドラマで祖母が孫を叱しかる際、孫を仏間に連れて行く。「仏は全すべてをお見通しでござる」といい、仏に対しては嘘うそはつけないのが伝統であった。また、主人公が決断を下す数時間仏間にこもって先祖と対話するのがドラマのパターンである。同様に「食事作法」「もったいない」「お陰かげさま」も死語になっている。家庭で食事のとき合掌して「戴いただきます」「ご馳走ちそうさま」というのは常識とされてきた。「戴きます」とは天地の恵みに感謝し、与えられた食事の「いのち」に対して発する感謝の言葉であるが、公立学校では言わないと聞く。手前でお金を払っているのだから感謝する必要はないというのである。
 仏教の再生は「仏教は社会変動の従属変数」を「仏教が社会変動を推し進める独立変数」に変えるべきであるというのはごもっともな意見ではあるがそうは簡単にはいかない。同様に、僧侶が毎日唱える「四弘しぐ誓願」の冒頭の一句「衆生しゅじょうハ無辺ナレド誓ッテ度センコトヲ願フ」は「利他行」であるが、他の三句は「自利行」である。「衆生の苦」を「自らの苦」に置き換える所に僧侶の「菩薩ぼさつ行」が成立する。僧侶は初心に戻り、「衆生の苦」を「自らの苦」に置き換える所に仏教の再生は可能となる。物事を大上段に構えるのではなく、身近なところから始めたらいいと思う。

ふじい・まさお 1934年、東京都生まれ、中・高校は愛知県。大正大大学院博士課程修了。大正大名誉教授。前日本生命倫理学会会長。専攻は宗教学。主な著書は『祖先祭祀の儀礼構造と民族』(弘文堂)『仏事の基礎知識』(講談社)『戒名のはなし』(吉川弘文館)など。