生かすことで生かされる
鷲田 清一 大阪大学学長 2010年9月15日(土曜日)中日新聞「時のおもり」より
想像力が試されている

 塩や水などを数少ない例外として、ヒトはいのちのあるものを食べて生きている。
 植物が太陽のエネルギーを蓄えつつ作った、炭水化物や脂肪という化合物を体内に摂取し、通過させ、運動エネルギーとして消費することで、動物は、ヒトは、生きている。つまり、生きるためには植物を食べ、あるいは植物を食べた動物を食べ、さらに植物を食べた動物を食べた動物を食べつづけなければならない。そしてその排泄はいせつ物がまた別のいのちの生成につながってゆく。こういう連鎖のなかでさまざまな元素が生き物のあいだで受け渡されていく。
 このようなことはふだんあらためて考えもしないが、わたしたちの生の基本前提である。
 こういう食物連鎖は、みずからの手で食材を採取し、捕獲し、交換し、調理していたかつてのヒトにおいては、目に見える事実だった。が、現代の産業文明のなかでは、その連鎖はほとんど見えない。いきなりどんとスーパーマーケットの棚に、捌さばかれた、あるいは調理された食物が並べられ、それを買って食す。それらの食物がその棚に並べられるまで、どこでどのように捕獲され、どのように栽培されてきたかを詳しく知るひとは少ない。


 バナナやオレンジ、パン、食肉…。どれをとっても地球上の知らない地域での、その地域での需要をはるかに超える栽培や飼育、そしてそのための大規模な農地開発を前提としている。そしてそのために森林伐採がおこなわれ、移送のための道路建設がなされ、水確保のためにダム工事がなされるというふうに、ヒトは生態系に乱暴に介入してゆき、食物連鎖を断ち切り、とんでもない数の生物種の生存を危機に陥れてきた。
 ヒトも含め、生き物はこの地球上で、絶妙としかいえないような仕方で棲み分けてきた。必要以上は採らないし、またヒトはそれらの食材が将来にわたって持続的に手に入れられるよう、その生態系に慎重に手を入れてもきた。が、そういうささやかな知恵をはるかに凌しのぐ大規模な捕獲や栽培や飼育がなされることで、それぞれの地域におけるヒトをもふくめた生態の絶妙なバランスが壊れてゆく。
 都市生活と産業文明が招いた生態系の破壊は、いま《生物多様性》(バイオダイヴァーシティ)の観点からも語られつつある。《生物多様性》をめぐっては、さしあたって次の二点に注目すべきだとおもう。
 ひとつは、多様性というのは時間軸のなかの問題であるということ。食物連鎖と棲み分けをたがいに生き死にをかけて調整してきた として《生物多様性》があり、その意味で多様性の事実は途方もなく長い過去の時間を内蔵しているということ。いや過去だけではない。里山でひとびとが森の木を伐ったあと、また別の木を植えてきたことからもうかがえるように、じぶんたちが死んだ後の世代がまた森の恩恵に浴するようにという未来への配慮もまた、ここには含まれている。


 もう一点は、《生物多様性》は、わたしたちが直面している環境問題のその「環境」概念を失効させかねないということだ。《生物多様性》というとき、ヒトも当然そのなかに含まれるのだから、世界を、ヒトの側から、ヒトを中心に置いてその「周り」として考えることは、多様性の関係からヒトを引っこ抜いてしまうことになるからだ。
 生かすことで生かされるという《生物多様性》の問題は、これらさまざまの次元で、わたしたちの想像力がどこまで及びうるか、試しにかけているようにおもわれる。