仏教談話
田上 太秀 たがみ・たいしゅう 2010年9月11日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
来世信仰と「限りなき生命」
神にはなれないが ブッダにはなれる [上]

 新刊の『なぜ、脳は神を創つくったのか?』という本のなかで、著者の苫米地英人とまべちひでと氏は「人間の脳は、幻視、幻聴、幻覚をよく起こします」と述べて、神は人間が創ったのだという。苫米地氏は脳科学者の立場から「神の存在を感じるような神秘体験は、神がいるから実際に体験したのでは無く、脳が情報処理を誤り、神の情報をつくってしまうことでもたらされ」たものともいう。
 神がいると自分で思っているのは、確かにその神をはっきりと認識していたわけではなく、それまでの記憶からそれに似たような情報をもって神がいると思い込んでいるにすぎないというわけである。
 たとえれば、麓ふもとの茶屋の主人が山頂の祠ほこらに鬼がいるらしいと、山を越えてきた旅人から最初に聞いたときは信じなかったが、後日、降りてきた数人の旅人から「いるらしいよ」と聞くたびに、主人はあの祠に鬼がいると思い込むようになったことに似ている。神の存在をだれも確かに見たという人間はいないのに、神がいると思い込んでいる人たちからの情報を脳がつなぎ合わせて、現にいるという幻覚を作り出しているのだと苫米地氏は論じている。
 この論点は神は実際に存在しないということにある。となれば、ほとんどの宗教、というよりすべての宗教は幻想、幻覚によって作り出された神を信仰していることになる。


 この説に対して神を信仰するキリスト教やイスラム教などの宗教からは大いに反論されそうだが、釈迦しゃかはごもっともな説と賛同することだろう。
 なぜならば、釈迦はあらゆる形作られたものには不滅なものは何一つなく、すべてが寄り合い、依り合い、縁り合いながら生じては滅しているという、因果の道理を説いたからである。
 釈迦はこの道理に基づき、人の歩むべき道を説いたにすぎないので、いわゆる仏教という宗教を立てたのではない。神の存在、世界創造の神を説いたのでもない。
 釈迦は神を信仰しなくても人は本当の安らぎを得られる道を教えた人である。
 いかに人は生きるべきか、いかに己の心を処すべきか、いかに世間に身を処すべきかなどを説いたのであって、神がなくては生きていけないとか、神の思おぼし召しを受ける信仰に生きるべきとか、まったく説いていない。


 釈迦はものの道理を熟知して、その道理にのっとって正しい習慣を身につけ、規律正しい生活をすれば、だれでもブッダになれるといった。キリスト教やイスラム教では神の教えにしたがい、規律正しく生きても、決して神にはなれない。死後も神に召されるとはいえ、つねに罪人で、人間自身が創った神にいつまでも従わなくてはならないという。
 ブッダとは高潔な人格を持ち、人々の尊敬の的となる理想的人物のことである。そのブッダは神でもなく、創造主でもなく、予言者でもなく、呪術じゅじゅつ者でもない。
 そのブッダを人々は仏像で表し、その仏像を礼拝すれば御利益ごりやくがあると考えている人が多いが、それは大きな誤りである。
 もともと仏像は安らぎを感応し、釈迦への帰依を誓う対象であった。もし対面する仏像を、あなた自身が釈迦のような人間になろうと願い、つねに自らを反省し、一生にわたって釈迦の教えにしたがって生き、人につくすことを誓うために向き合った鏡とみたら、その仏像に釈迦と重なったあなた自身を発見できるはずである。

"足る"をわきまえて "妄執"から逃れよう [下]

 重厚な演技をもって知られる個性派女優の樹木希林さんは、あるテレビ番組の対談で相手から「あと二、三日の命ですと告げられたら、最後になにを食べたいですか?」と聞かれたことに、「私は何も食べずに、お腹なかをきれいにして死を迎えます」と答えた。聞き手は「多くの人は好きなものを満足するまで食べて死にたいと考えるのですが」と聞き返すと、「死ぬのにどうしてお腹を満たして何の意味がありますか」と答えたことばが印象的であった。彼女のことばを聞いて、筆者は欲望を満たすという意味を考えさせられた。
 釈迦しゃかのことばに少欲知足(欲は少なく、足ることをわきまえること)がある。彼女は死と向き合ったときに欲望の充足がいかに無意味であるかをのべたのであるが、、日頃から彼女は釈迦のことばのような生き方をしてきたのであろう。
 もちろん釈迦は死を迎えようとするときに少欲知足を勧めたのではない。日頃から人は欲望の虜とりこになっているので、心身を健やかに保つには少欲知足でなくてはならないと教えたのである。


 現代社会では情報や広告が氾濫はんらんし、人の感覚は絶えず刺激されている。眼や耳や鼻や舌や皮膚や心はいつも広告に誘惑され、新たな欲望を生み、落ち着くひまがない。
 多欲は美徳だという人が少なくない。彼らは多欲を悪いとは考えていない。釈迦の少欲知足の教えからすれば、現代人の多欲を美徳とする考え方は否定されるが、釈迦は欲望を悪と決めつけていない。
 釈迦が説いているのは、多欲より少欲がいいに決まっているが、多欲であるか少欲であるかはさほど問題ではない。足ることをわきまえるのが重要だということである。
 少欲であっても足ることをわきまえない人は、多欲であっても足ることをわきまえている人に劣る。足ることをわきまえるのは視覚、聴覚、嗅覚きゅうかく、味覚、触覚などをコントロールできることである。したがって釈迦は欲望をなくすことを説いたのではなく、欲望のコントロールが重要だと言った。
 人には食欲、性欲、睡眠欲、金銭欲、そして名誉欲の五つがある。これらの欲をなくしたら人は生活できない。社会生活を営む上でどれも欠かせない。体力をつけるために食べる。性欲は子孫の存続に必要である。生命の維持と心身の休息のために眠る。安定した生活維持に金が要る。地位や名誉を得るために人は意欲を燃やす。
 これらの欲望を満たすことは悪ではない。しかし人は必要以上に求めて、ものに妄執する傾向がある。これが人を悩ませ、苦しめることになる。
 食べ過ぎ、飲み過ぎで病む。享楽のために性欲をもてあそび、堕落する。睡眠をむさぼり、仕事を怠け、信用をなくす。金銭に卑しい守銭奴となり、人に軽蔑けいべつされる。地位に固執し、名誉を鼻にかけておごりに塗まみれる。
 このような人の生き方を観察した結果、多欲知足もいいが、少欲知足に勝る生き方はないと釈迦は言った。この少欲知足の心をもち続ければ、だれでもいまの生活のままで釈迦と同じ心を共有できるのである。とくに出家生活をしなくても、心を律する習慣を身につけたら、だれでもブッダの境地に近いということになる。
 この煩悩に塗れた状況は釈迦のようなさとりの境地とはかけ離れているのでは?と大多数の人は考えるが、それは人々の思い過ごしであって、釈迦もさとる前は遊興にふけり、遊びつくし、いろいろと悩み、苦しんだのである。ものへの妄執を離れたこと、足ることをわきまえることで心はまったく安穏となったとのべている。


 要するに釈迦は四苦八苦の原因は妄執にあり、その妄執はむさぼりと怒りとおごりであると説いた。むさぼる心が妄執し、怒る心が妄執し、おごる心が妄執して、人は苦しみをつくっている。むさぼるな、怒るな、おごるな、そうすれば妄執を離れ、苦しみは消え去り、そこにブッダの境地が開けるという。

たがみ・たいしゅう 1935年、ペルー・リマ市生まれ。東京大大学院博士課程修了。インド仏教・禅思想。駒沢大教授、駒沢大禅研究所所長などを歴任。駒沢大名誉教授、文学博士。主な著書は『仏教徒女性』『ブッダが語る人間関係の智慧』(東京書籍)『仏陀のいいたかったこと』『道元の考えたこと』『仏典のことば』(講談社学術文庫)『ブッダ臨終の説法』全四巻(大蔵出版)など。