唯識に学ぶ
多川 俊映 たがわ・しゅんえい 2010年8月7日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
深層に自己中心の世界 [上]

 今年、奈良は平城遷都千三百年を迎え、その関連催事で賑にぎわいをみせいている。かつての平城京の中心部―、そこに復元された朱雀すざく門や第一次大極殿だいごくでん、あるいは、復元模型の遣唐使船の展示に、古代のロマンを感じられた方も多いであろう。
 その遣唐使船だが、いつの場合もほぼ四艘そう。それで「死の船」ともいわれた。つまり、私たちの先人たちは、決死の覚悟で唐の先進文化を果敢に導入したのだ。政治や行政の仕組みはもとより、仏教や儒教さらには天文・暦・土木技術にいたるまで、ほとんどあらゆるものを学び取った。
 平城京の前に藤原京もあるが、前後十六年という短期の都で、また、それ以前は、天皇が替われば都も畿内を転々とする状況で、およそ国家の体をなすには至らなかった。
 この展、平城京の奈良時代は七十余年とはいえ、ほぼじっくり腰を落ち着かせ、はじめて国家としての日本を造営した時代だった。ふつう、その七十余年は「短い」と理解されている。が、単純に後代の平安京などと比較して云々うんぬんすべきでなく、古代としては、むしろ異例に長い都だったといってよい。
 それはさておき、その平城京の中心部から東に目をやれば、春日山の麓ふもとが西に張り出した丘陵地(春日野)の先端に立つ興福寺を望むことができる。
 実は、そこもまた平城京内で、左京三條七坊の地区だ。このことから、平常遷都を実質的に企画し、リードした藤原不比等ふひとにとって、平城京の造営と氏寺興福寺の造営はセットだったと想定される。
 なお、春日野は古代人にとって、きわめて神秘性・精神性に富んだ場所で、たとえば遣唐使の出発にさいして、ここに天神和祇わぎを祀まつり、航行の無事が祈られた。そういうエリアの一郭を京内に取り込み、かつ興福寺が造営されたのだ。


 その興福寺で学ばれたのが、<唯識>と呼ばれる仏教である。興福寺の創建は平城遷都と同時なので、じつに千三百年もの間、連綿と唯識仏教が学ばれてきたわけだ。
 千三百年来なぞといえば、「なんともマア古い」といわれるかもしれない。しかし、唯識の世界観は端的にいって、「識こころによって知られたかぎりの世界」ということだから、情報とかバーチャルリアリティーという言葉が飛び交う社会にあって、きわめて今日的な意義をもっているといえるのではないかと思う。
 唯識仏教の特徴の第一は、心の構造やそのはたらきを精緻せいちに考察していること。前五識ぜんごしき(視覚・聴覚・嗅覚きゅうかく・味覚・触覚の五感覚)と第六意識(自覚的な知・情・意のはたらき)は、こころのごく表面的な部分だ。そんな表面的な感覚や意識をいわば下支えする形で、第七末那まな識(自己中心性)と第八阿頼耶あらや識(心身の基体となる深いこころ)という、無意識の領域が展開していると考えるのだ。
 深層の末那識や阿頼耶識は、表面の感覚や意識と違って、いわば眠らないこころだ。そういう阿頼耶識によって、ときに眠るというか、むしろトギレトギレにはたらく表面的な感覚や意識が維持、バックアップされていると考えられているが、問題は末那識である。
 つまり、自己愛というか自己中心性の末那識が、表面の意識に絶えず干渉して、意識の内容をつねに自己中心的にもっていこうとする。


 そのはたらきは文字通り、寝ても醒めても、だ。四六時中、意識に対して、「自分中心でいいんだよ、自分中心でなきゃあ」と声なき声でささやきかけて止まない。それが、第七末那識のはたらきだというのだ。
 自己の欲望をできるだけ抑制し、かつ、他者のことをおもんばかる―。私たちは、そうした生活態度をこそ求めるべきであるが、その裏側で同時並行的に、自己中心でいいんだ、とひそやかに牽制けんせいする動きがあるのだという。
 むろん、唯識仏教はそんな末那識を改造する手だてを示教するが、こうした心理メカニズムの一端だけでも、唯識が人間をどのようにみているか、その人間観の深さがわかるであろう。

一人ひとりのバーチャル [下]

 平城京は、左京の一部が東に張り出した形になっている。興福寺はそういう左京三条七房に所在するが、奈良を代表するカメラ・アングルの一つに、猿沢池から見上げる興福寺五重塔というのがある。
 おなじみの風景といえるが、その猿沢池もまた平城京内にある。といえば、おそらく読者は、驚かれるにちがいない。
 しかし、平城京の中心(第一次大極殿)と猿沢池とは、直線で3.5キロメートルの距離。移動はほぼ徒歩だった古代の人々にとって、指呼とはいえないまでも、さほどの距離ではなかったはずだ。
 この猿沢池の南にあるのが元興寺で、かつては唯識仏教や、もっぱら空思想を説く三論の教えが学ばれた。もっとも、興福寺と元興寺の唯識は、伝来を異にしたことから、細部に違いがみられたといわれ、それぞれ興福寺伝・元興寺伝と称された。
 また、両寺の間には例の猿沢池があるので、池を中心にして、南にある元興寺の唯識を「南寺伝」、北の興福寺の唯識を「北寺伝」ともいった。
 ただ、こうした唯識の二つの系統も、平安時代末には、より精緻せいちな北の興福寺伝に吸収統一されたが、唯識仏教にとっての猿沢池は、なかなか重要な位置にあるといえる。そんな猿沢池にちなんだ、つぎのような唯識道歌がある。


  手を打てば鯉こいは餌と聞き
  鳥は逃げ女中は茶と聞く
  猿沢の池

 誰がいつ作ったか明らかでないが、唯識ということ、あるいは、私たちの認識というものを考える場合、なかなか興味深い。
 唯識仏教では元来、この点にかんして、「一水四見いっすいしけん」の喩たとえを用いてきた。いわく、人にとっての水も、魚にとってはすみかだし、過去の業ごう(行為)によって餓鬼道に堕ちた者には、飲みたい水もたちまち火と燃え上がる。そして、身の軽い天人は、水の上をあたかも瑠璃るり(ガラス)の上を歩くように移動する…。
 こうした喩えを、いっそうわかりやすくしたのが、この道歌だ。手を打つポンポンという音、いうまでもなくきわめて単純なものだ。が、個体的条件によって、その認識内容がかくも異なる。つまり、鯉は餌をもらえると岸辺に近づき、鳥は身の危険を察知して逃げる。他方、池畔にある旅館の中居さんは、お客が湯茶がほしいと合図していると理解する、というわけだ。
 個体的条件とは生物種、人なら過去をベースにした現在の考え方や問題意識、好みや感覚能力などだ。
 これらを、唯識が考える心の構造でいえば、過去の行動情報を蓄積して現在の心身の基体となっている第八阿頼耶あらや識と、知・情・意の第六意識。その意識にも自己中心性(反省可能)があるが、その上になお、意識下から絶えず自己中心性をささやく第七末那まな識があるという構図である。
 むろん、五感覚の前五識ぜんごしきも、ものごとの認識に重大にかかわる。たとえば、光だけでいえば、私たちには紫外線も赤外線も見えないから、そういう限定された世界で色というものを判断しているわけだ。
 そして、総じていえば、筆者なら筆者の前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識というこころの各層が総合的に認識し判断した世界が、筆者の前に展開している。


 そういう世界は、筆者のこころによって知られたかぎりのもので、バーチャルという他ほかなく、けっして「ありのままの世界そのもの」ではない。
 つまり、私たちがみている世界は、実に、私たち一人ひとりのこころがそれぞれ作り出したものなのだ。ということを、このさい、十二分に知っておくことが大切であろう。
 そうであれば、自分と他者の認識には「なにほどかの乖離かいりがある」、あるいは、「程度の差こそあれ相違する」ということもまた、よくこころにおさめておきたいではないか。
 私たちは日常、さまざまな人間関係の中で暮らしているが、そういう相違や乖離を当然の前提にすれば、無用のいざこざに心奪われることもなく、社会により豊かにかかわっていけるのではないか。
 それというのも、相違や乖離ではなく、私たちは、なんとなく「みな同じだ」という思いを前提にしているフシがみてとれるからだ。
 しかし、それもまた、バーチャルリアリティーそのもの。そんな無いものを前提にしているかぎり、私たちの人間関係がよくなるはずもない。
 猿沢池にちなんだ手を打てばの歌は一見、どうということもないものだけれど、私たちにきわめて重いものを問いかけていると思っている。

たがわ・しゅんえい 1947年、奈良県生まれ。立命館大文学部卒。興福寺貫首。著書に『はじめての唯識』(春秋社)『心に響く99の言葉―東洋の風韻―』(ダイヤモンド社)『旅の途中』(日本経済新聞出版社)など。