いのちの危機 宗教って何
久保田 展弘 くぼた・のぶひろ 2010年7月24日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
生きている意味を問うとき
救いはどこにあるのか [上]

 人間はもとより、どんないのちも単独で存在することはできない。日本人はむかしから「孤独を愛する」とか「孤高の人」といったフレーズにどこか特別の生きようをイメージしてきた。だが、孤独を愛するのも、孤高の人であることも、他者あっての孤独であり、孤高であろう。
 鎌倉中期の13世紀に、九州から岩手県北上市あたりまで行脚あんぎゃした一遍は時宗の開祖だが、そのころ時衆とよばれた男女の念仏信仰グループのリーダーであった。生涯の多くを時衆と行動をともにしたが、一遍の語録には「生ぜしも独りなり、死するも独りなり、されど人と共に住するも独りなり」の一節がある。
 人は生まれてくるのも、死んでゆくのもたった独り、人と共にくらしていても、人間はたった独りなんだと語る一遍の、念仏往生にかけるぎりぎりの思いと、いのちのありようへの切ない祈りが伝わってくる。


 独りで生まれ、独りで死んでいくこの人間のいのちへの認識がいま、おそろしいまでに希薄になっている。親が子を、子が親を、隣人が隣人を傷つけ殺し、道ゆく見知らぬ人間を切りつけ、むしゃくしゃするからやったといい、なにをしたか記憶にないという。
 これは自分に向うべき殺意が、他者に向けられたに等しい。いやここには、他人ひとを傷つけることによって、自分が生きている実感をとりもどそうとする、おそろしいまでの生存本能がはたらいていないだろうか。
 ここでは独り生まれ、独り死んでいく人間といういのちへの切ない思いが逆転して、他者のいのちへの可能性が強奪されている。
 1990年代以降のめざましい経済発展を誇るインドに、モノの豊かさにかこまれながら、生きている意味がわからないと自殺にはしる若者が増えている。欲しいモノを手に入れ、セレブを誇る人々のあいだに、こころの依りどころを求めようとスピリチュアルな世界に救いをさがす人が増え、安易なテロリズムにはしる若者が増えていると聞けば、幸福って何の問いは一層現実味をおびてくる。テロリストの末端組織にくみこまれ、まるでゲームを楽しむように見知らぬ人間を殺傷している自分に興奮し、それを神の意志と肯定していく若者を抱えた経済の隆盛。
 一方でパレスチナ、アフガニスタンだけではない、強いられた状況のもとで生の可能性を自虐的に抑えこみ、他者をまきぞえにして死へと突っ走る自爆テロの首謀者たち。


 自然のあらゆる変化、状況に神の意志を認識し、文化の創造が宗教を通して果たされてきたはずのインド。唯一の神の意志を聖典に求め、生と死と死後を委ね、殉教死を肯定してきたイスラム教世界。
 モノの豊かさが宗教を武器に変え、一方で進路を閉ざされ、強いられた貧しさに気づいたとき、宗教が武器に変貌へんぼうする。豊かさと閉ざされた世界に響き合う「生きている意味がわからない」という呻うめき。いや人間は過剰な豊かさと、強いられ、閉ざされた今日明日きょうあすという両極に向き合ったとき、はじめて「生きている意味がわからない」ことに気づくのだ。
 そして生きている意味なんてわからないことに気づいたとき、人はさらに生きてその意味を問うことより、生の断絶によって、その意味を問うことを放棄する。
 ならば宗教はどんな意味があるのか。宗教は生を促すのか、死を強いるのか。アメリカにおける同時多発テロ事件以来、宗教はつねに事件とともに登場するように錯覚されている。だがこれは、けっして錯覚ではない。
 キリスト教、イスラム教という一神教の歴史に共通するキーワードは殉教にある。殉教死は事件だが神の教えに従い、教えに殉ずることがつねに肯定されてもきた。
 民族の意識が宗教を呼び覚まし、事件を誘発してきたともいえる。なんとそれはいまも変わっていない。

自他を殺さない いのちの認識  
そこが宗教の始原 [下]

 つい数日前、セルビア(旧ユーゴスラビア)の自治州コソボの独立宣言が、国際司法裁判所によって合法とされたというニュースを目にした時、私にとって忘れられない光景がよみがえっていた。
 北大西洋条約機構(NATO)軍による国連無視の軍事介入によって、かたちばかりは紛争がおさまって間もない2003年の9月、旧ユーゴの首都ベオグラードから8時間余のバスに揺られたどり着いた終着駅から、喧噪けんそうの町はずれに川をまたぐ真新しい鉄橋が見えた。6人の兵士が銃を構えて立つそこが、目指す州都ブリシュティナは、相乗りの中型バスでさらに2時間先だった。
 起伏の多い車道沿いに倒れたトラック、仰向あおむけになった戦車が泥まみれのまま放置されている。そこはいまも、キリスト教徒の多いセルビア民族と、イスラム教徒の多いアルバニア民族との、血で血を洗うような虐殺の連鎖が息をひそめている。
 五十代のアルバニア人が目の前に広げた、セルビア人の手によるのだという少年少女への、目をそむけたくなるような虐殺現場をとらえた写真の数々。アルバニア人が80%を占め、モスクの尖塔せんとうが目につく町には、10%余のセルビア人キリスト教徒もいる。
 90年代に激しさを増し、ユーゴスラビア連邦にエスニッククレンジング(民族浄化)のことばまで生んだ紛争は、まさに「秩序なき世界」といわれてきたバルカン半島の歴史を象徴してもいた。しかし民族・宗教・原語が交錯するバルカン半島を、無秩序で野蛮なアジアと西欧のあいだをへだてる緩衝地帯と位置づけてきたのは、西欧列強のキリスト教世界であろう。


 混沌こんとんから秩序ある世界へ。ここにはつねに一神教の優位が語られている。だがいま、グローバリズムという、その実態の見えない巨大な歯車の一端にくみこまれた誰もが本能的に怯おびえるのは、経済・政治の不安定が生みだすいのちの危機でないだろうか。
 閉ざされた世界における、生きていることの不安が民族・部族意識を誘発し、これと一体の宗教を武器に変えるのだ。いまのイラクが、アフガニスタン、パレスチナの状況がこのことを語っている。
 くらべて宗教あるいは信仰ということばが、日常的に避けられてきた日本という高齢社会に広がる不安は、自然観と連動した生命観に直結するいのちの認識を忘れたことにはじまっていないだろうか。しかも核家族化は、誰にも労病死がまちかまえているのだという当たり前のことを気づかせないできた。
 そしていま、コマーシャルベースに乗ったエコブームが、経済的価値を謳うたいながら、自然に向き合うことの未来性を語り始めている。だが、アニミズムから一神教による秩序の世界へという理念は、予測できない経済の流動化のなかで、新たな格差と、意識の差別を生み、それが新たな民族・部族意識を呼び覚まし、宗教を武器に変えようと身構えているのだ。
 ムシャクシャしたから他人ひとを傷つけ殺したことを事後になって「なぜやったのかわからない」と告白する殺人犯を知る人々が「彼は普通の人だった」と語る。なんとおそろしい話であろうか。
 つね日ごろ、殺人犯らしい人間なんているものではない。普通の人が殺人犯になるのだ。誰もが殺し、殺される可能性を秘めた現代が、命の無秩序世界でなくてなんであろう。しかも肉声による意志の伝達を避けようとする日常を、無縁社会とよぶだけでいいわけがない。


 すでに唯一の神による世界の創造、統一が幻想であることは誰もが知っている。世界が無数のいのちといのちの関係にあることへの気づきが、必然的に地球環境問題への関心、エコブームを導いているのだ。そして日本の世界有数の高齢社会が60年の余、戦争そのものに加担しなかったことによって導かれていることを忘れてはならないだろう。
 宗教は開祖があってはじまるわけではない。自他を殺さないといういのちの認識、いのちが単独でいのちであることはなく、永遠でもないのだという認識こそが宗教のはじまりではないだろうか。
 いま、世界経済の主要テーマであったオイル依存の時代から水・空気の危機の時代に向き合い、あらためていのちがいのちとしてあることの不思議に気づく。これが始原の宗教でなくてなんであろうか。

くぼた・のぶひろ 1941年、東京都生まれ。早稲田大卒。アジア宗教・文化研究所代表。専門は宗教学。著書に『さまよう死生観』(文春新書)『原日本の精神風土』(NTT出版)『仏教の身体感覚』(ちくま新書)など多数。