自然ということ
廣澤 隆之 ひろさわ・たかゆき 2010年6月26日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「自ら成る」もの
ことばで知る人間の弱さ [上]

 最近は多くの人が消費生活と自然環境を結びつけて考えるようになっている。そして美しい自然を保護すべきであるという主張も以前にまして広がりを見せている。さらに、このような自然への意識は、美しい自然と共生する新しい生活様式を求める傾向ともなっている。さらには、死後の世界にもこの思いは広げられ、新しい葬送方法を求める人もいる。
 私たちの生活を自然と結びつけるこのような傾向は、現代人の願望や思いを投影させた特徴であろう。もちろんいつの時代にも人は自然と関係しながら生きてきたのであるが、現代人の自然への関かかわりの特徴は自然との関係を希薄きはくにしつつ、ますます自然を見失いつつ、仮想された自然を求めているように思えてならない。もともと生の自然を生きることができない人間が、暴風雨のような荒々しい生の自然の相貌そうぼうの現れさえビルの窓から眺め、テレビで確認するかぎり、人間的営みの延長に自然を仮想するにすぎないのではなかろうか。


 さて、それでは自然とはそもそもどのようなものなのであろうか。まず私は西洋の自然概念のもとになったギリシャ語のピュシスを想起する。アリストテレスによればピュシスとは「自己生成の原理」であるという。しかも、興味深いことに「自己生成」という概念を古代インド文化ももっていた。それをサンスクリット語ではスヴァヤンブー(スヴァヤンとは「自おのずから」、ブーは「成る」という意味)という。このスヴァヤンブーは漢訳仏典では多くの場合「自然」と翻訳される。非常に高度な思想をそなえた中国では仏教思想を翻訳するとき(初期のころには特に)老荘思想の概念を援用した。まさしくインドのスヴァヤンブーは老荘思想の核となる「自然」に近いものと意識されたといえる。そして仏教思想が認識の目標とする「ありのまま(人間的偏見を取り除いた認識)」を「自然」と解し、老荘思想的生き方が組み込まれた。
 ギリシャにおいても、インド・中国でも、自然は外界の景観を言い当てる概念ではなかった。人間的思いを超えて自己生成する世界のありかたが自然と考えられていた。
 ところで、老荘思想や仏教の基本的立場については、井筒俊彦著『意識と本質』がきわめて深い理解を私たちに示している。彼によれば東洋の思想は基本的にことばによる認識以前の地平に存在を把握しようとする傾向があるという。そこに西洋のロゴスという論理あるいはことばによる存在把握とは異なる立場があるといえる。


 このことをヒントに自然について考えれば、自然はことばによって表象されたとき、すでに人間的意識の範囲内で受け止められる事物に変換されており、それはもはや生の自然ではないことになる。しかも人間は自然と立ち向かって生きることを運命づけられているので、ことばによる自然理解にもとづき、技術的に自然を利用する方法をとらざるをえない。他の動物は生の自然を生きるが、人間はことばを介してのみ自然と関係するのであり、もはや生の自然を生きていないことになる。採取生活でも道具の工夫をし、農業では生の自然をはぎ取って人間的関心の範囲としての耕作地を造り、作物を実らせる工夫をしたのであるから、それはことばの複雑の体系がなければ不可能である。
 だが、人間の知恵や工夫も自然界の圧倒的な力に比べればまったく非力であるといわざるをえない。無限大の力の前では有限な知力はかぎりなくゼロに近い。それゆえ自然と向かい合うとき、人は自らの有限であり非力であることを自覚せざるをえない。
 この自覚からはさまざまな想像力がはたらく。自然現象に意味づけをし、そこに壮大な神話の体系を読み込む文化も生まれ、祈りの儀礼も準備された。また無限の力をそなえる自然のなかに生成する人間を、ことばを基礎とする文化の規制を離れて自然のなかに再生させようとする仏教や老荘思想も生まれた。

仮想の景観に慣れ
自然と生きる文化を [下]

 人間は自然を切り離す働きがあることばを基礎体系とする文化なしでは生きてゆけない。しかし生命は自然との結びつきを失わず、しかも文化を生きる私たちの生き方が模索される。このことは最も鮮明に仏教に見られ、そこには自然へと還帰するための思想が準備されている。
 ところがインドの仏教では自然を内面あるいは身体に求める傾向が強く、自然環境への配慮が著しく欠けている。自然環境と自己の内的自然との相即そうそくを強く意識するようになったのは中国仏教においてである。たとえば、道元禅師の師であった宋時代の如浄禅師は深い宗教体験を梅の花に擬して説いたという。


 日本仏教ではさらに自然環境が重要な体験の基盤となっていた。というのも、奈良時代から仏道修行の場を積極的に山中に求めていたことにも見てとれるからである。それは仏教教理に優先し、山中に超越的な自然の威力を感じるという共通感覚があったからであろう。もちろんそこには、山中で神秘的な霊力を感得し自然の超越的な力を身体に付与するという道教の影響もあった。
 日本人の宗教的世界観の根底には山と海の景観が強く支配しているが、とりわけ山は分化形成に決定的な意味があった。というのも、日本では魂の行方を多くの場合に山に想定するからである。山に入った死者の魂は長い年月とともに祖霊=カミとなり、日常世界を生きる人々を支える。たとえば、山のカミは春になると田畑に下って作物を実らせ、秋になると山へ帰る。その循環にあわせて人々は祭礼を営む。
 このように死者の魂が生きている人々と親密に結びつく文化が自然環境と関係づけて独特に展開している。山が農業のみならずあらゆる生活の支えとなる水利の源であることも関連し、都市や村里の日常生活は山という非日常的な空間との関係において支えられるという独特の宗教観念が成立していた。
 このように意味づけられる山での修行は絶えることなく今日まで受け継がれている。修行の場は自然そのものなのではなく、人間的思いによって表象され、意味づけられた自然環境である。だがそこに入り、過酷な自然の環境に身を置くことで、修行者は身体に自然への通路を見いだす。そして超越的な自然の力を身体に受けとめる。このような非日常への心身の変換が自然の中に自己を解放することになる。そこで獲得された自然の生命の力はさまざまな儀礼によって都市や村里に住む人々に及ぼされる。
 このような観念が自然の中で生者と死者が共存する文化を生み出し、さらには「自己生成する」生命を自然環境の中で感受する文化を展開した。たとえば、西行法師の「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ(山家集)」という有名な歌にも、現代人の感覚とはだいぶ異なった自然への情感が歌われていると思える。彼には高野山などでの山中の修行経験がある以上、桜の花は現代人が見るのとは異なった情景のなかで感受されていたであろう。自らも身を投じた過酷な自然環境の中に桜は色づく。その時季はこの世から身を隠した釈尊の涅槃ねはんがとりわけ意識され、それは自己生成する生命への還帰として受けとめられているのではなかろうか。西行に憧あこがれを懐いだいた芭蕉の「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」という句にしても、そこには極小のなずなの花に無限な自然の生命を感じ、そこに自己を同化する意志が読みとれる。


 私たちはややもすると自然環境を眺めつつ、自然を意識することに慣れてしまい、その背後にある自己生成する自然の生命力を見失いがちである。典型的な現代人の自然感受は、たとえば、列車の窓から眺める田園風景の広がりへの情感であろう。車窓から見るその景色に現代人は美しさを感じる。しかし田園背活を経験している者は水田の泥水の実際を知っている。決して美しくない光景が広がっているのである。ましてや、山や川には人間にとって危険な自然の脅威が潜んでいる。しかし車窓から見る景色にはそれは見えない。このように現代人が感受する自然環境を私は都市型住民の景観と見なしている。多くの人は景観を美しい自然と受けとめるが、生の自然を体験する通 路を失っていると思える。今の時代こそ、仮想された自然を美しいと見るだけでなく、自然を生きる文化を再構築する必要があるのではないだろうか。

ひろさわ・たかゆき 1946年、東京都生まれ。京大文学部哲学学科卒。大正大教授。智山伝法院院長。東京都八王子市・浄福寺住職。著書に『「唯識三十頌」を読む』(大正大出版会)『図解雑学・仏教』(ナツメ社)『図説・日本の仏教とお経』(青春出版社)など。