生き方としての禅
中野 東禅 なかの・とうぜん 2010年5月1日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
予防精神医療"自我ののぼせ"解消 [上]

  人間の命と心を回復

 最近、禅や瞑想めいそうが見直されています。アメリカで半世紀ほど前に提案された「認知療法」という、心の治療法でも「マインドフルネス」という目標を基準にして「瞑想・禅」が取り入れられています。アメリカではこの半世紀の間に、日本・チベット・南方系仏教の瞑想が広がり、それが精神医療の医師達と連係してこうした世界が広がったのです。それが日本にも導入されてきたわけですが、まだまだ動きが鈍いのは、宗教としての純粋な修行、つまり「修行道場の禅」が伝統的で深い修行禅を作っているために、医療現場に連動する応用としての禅に関心が向かないのかもしれません。
 さらに、日本では伝統的な「宗派」が家の宗教的な所属意識になっているために、「禅・瞑想」も、その意識に縛られているためかもしれないのです。
 しかし、精神医療ではそうした枠を超えて人間の命と心の回復方法として再構築されつつあるのです。
 「禅」とは何か。なぜこの言葉に魅力を感じるのであろうか。それは人間ののぼせと、その解消についてのインド5000年の古典ヨーガの観察と、仏陀ぶっだの思想と実践で証明され完結された「人間解放方法」の確かさの魅力があるからです。
 ジュハーナというインドの言葉を音写して「禅那」と書き、形が座ることだから「座禅」というわけですが、その内容は「静寂に安住すること」ということにつきます。
 人間の苦悩や問題の状況を解消することは社会的に重要です。しかし、生・老・病・死や、人間関係は、状況を変えようがない事があり、状況を変えるにしても自分ののぼせが解消しなければ改善しない事ばかりです。


「デモ座禅」に心動く

 のぼせを下げるといっても、自我が「自我」を捨てる事は難しいものです。ところが、本当に「問題の混乱」がつらくなったら、問題の根元が「自我ののぼせ」にあると気が付きます。その時、人は本来の自己に帰ろうという方向へ心が向かいます。
 それは「のぼせた自我」が気付いたのではなく、命の深いところにある静寂な自己が、のぼせた自我に気付いたからです。大学の経済学部の学生に座禅を体験してもらい、翌週、感想文を書いてもらいました。その中に「先生が姿勢と呼吸を直してくれたらとても楽になり全身が清々としてました。どういうわけか、その日一日人の言葉が良く聞こえたのです」とありました。心身の静寂を体験したのでしょう。こうした原体験から「写経デモしてみたい」「座禅デモ…、聖書の勉強にデモ…、札所巡りデモ…」という心が起こるのです。それを私は「デモ座禅」といいます。その「デモ」という時にその人の根元の心が働きだしているからです。


 動機と目的確かめる

 今までいくつかの座禅会にかかわってきて、座禅指導がどうかすると、より本格的な道場の座禅の方に引きずられる嫌いがあったのです。しかし現代人のための予防医療としての瞑想という活動にかかわるようになって、気が付いたのです。それは、参加する会員は現に生の世間にいて、会社が終わってから急いで座禅に来るのです。したがって、その都度、動機と目的を確かめる事が必要ではないかという事です。
 そこで「南無の会」座禅会で試みているのです。お釈迦様の「法句経」の言葉の中から「瞑想に心を向ける言葉」たとえば『荒々しい言葉をいう事なかれ…』、「目標を自覚する言葉」『戦場で百万人に勝つよりもひとり自己に勝つものこそつわものである
 こんな言葉を、座禅の前と、終わりに朗読するこころみです。会員の意見は、目的が自覚できていいから続けてほしいというものでした。

腹を据える 老病死の混乱を解消 [下]

 落ち着きへの「念」

 命と心の根元は、心が自我に染汚する以前の静寂であり、その力が働きだし、それが善いものだと自覚され信じられるから行動になるのです。
 それは自我の力で信じるのではなく、命の本質的真実につき動かされて信じさせられる(いわゆる他力)のです。それが自覚になった時自分が信じ、それを確かめるために努力するのです(いわゆる自力)。その時、大事なことは「心」の方向です。禅や仏教にかぎらず、心に善き方向をもつ主体性がその人自身を救う力になるのです。道元さん(1200~53年)が、インドの「こころ」学として重視するのがチッタ心です。
 チッタとはインドのことばで、日本語でいえば目的意識のことです。心の機能を三種に分けて「目的意識」「身体的な心理機能」「学習と経験を働かせる心」で成り立っているといいます。目的意識が汚れていれば生理的心はのぼせ、汚れを実現するために経験知を働かせます。目的が善であり、あるいは寂静じゃくじょうであれば心理的にも、知識もそれに合わせて働きます。だからチッタ心の方向こそ自己を救う力なのです。いわゆる念仏の「念」はこれに当たります。


 本来の自己に安住

 禅は寂静な真実心からの働きかけにつき動かされて、その落ち着きに帰ることで現実の混乱を解消し、本来の自己に安住する道です。
 一方「死の臨床研究」や「生命倫理」などと関かかわりながら、カルチャーセンターや座禅会で「正法眼蔵しょうほうげんぞう」を講読してきました。その中で、生死についての禅の考え方もじっくり味わうことができました。「正法眼蔵」に次のような逸話があります。
 玄沙師備げんしゃしびさん(9世紀)は「全世界は一個の透明な玉の中だ」といいました。それについてある僧が解説を求めたが、師備は「理解して何になる」といってつきはなします。それなのに、翌日になると、その僧に「どう解釈したか」と聞きにいきます。僧は「解釈なんかできない」とこたえると、師備は「分かった。君は地獄で生きていく力が付いた」というのです。
 これを道元さんは「身今しんこんあり、心今しんこんありといへども、明珠みょうじゅなり」と解説します。
 「すべての存在の事実は透明な玉の中にいるようにごまかしようがない」のだから、解釈ではなく、そこをいかにあるべきように真実として生きるかが人間の責任であるというわけです。だから僧が「解釈なんかできない」と答えたのは、その事実をごまかすことなく全力で生きるしかないという意味なのです。だから師備さんは「わかった、君は地獄で生きていく力が付いた」と証明したわけです。
 それを道元さんは「命の今のご縁(心今)というしがらみを背負っているとはいえ、明珠の中の自己はごまかしようがなくあるべきように生きて善かったになる」という生きかたが、地獄で生きていく力なのだというのです。これが禅の腹の座りから働く生き方学という事になるのです。
 脳死・臓器移植問題では「自己決定や契約主義」と「自然の命に従う」生命観が対立しています。仏教の「業・因果論」つまり、心と行為の主体性の論考では、環境の条件、命の条件、習慣やコンプレックスという条件、時代社会の影響、過去の行為の影響、人の心を通すと行為が変化して影響し、それを背負って新たな行為を選択していくが、その時、苦悩を再生(輪廻りんね)する行為と、自覚によって再生しない行為とを選択していく、というのが仏教の基本です。


自分を問い輝かせる

 禅の生き方学として道元さんは百丈懐海えかい(8世紀)さんの「これ(寂静への腹の座り)を車(土台)となして、因果(現実)を、運載(そこを善かったにする生き方)す」という生き方を高く評価します。
 脳死状態で生かされるという矛盾状態や、臓器移植でなければ生きられなくてその技術があるという矛盾状態の時、自己を輝かせ、他者を安らげるために善かったといえる選択をするのは私自身の腹のすわりであろう、と、禅は自分を問う生き方学なのです。

なかの・とうぜん 1939年、静岡県生まれ。駒沢大仏教学部卒。現在、曹洞宗総合研究センター講師、南無の会副総務、京都・龍宝寺住職。著書に『中絶・尊厳死・脳死・環境―生命倫理と仏教』(雄山閣)『道元百話』(東方出版)『プチ出家入門』(グラフ社)など。