仏教の「不生不滅」
定方 晟 さだかた・あきら  2009年7月18日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
言葉を超えた世界へ
「無分別」こそが理想 [上]

 「不生不滅」という言葉がある。一般にこれが意味するのは、生じ、滅するものは多いが、不生不滅のものがいくつかある、ということである。例えば「神」であり、プラトンの「イデア」である。
 これに対し、仏教の「不生不滅」が意味するのは、そもそも生や滅というものがない、それは言葉としてあるだけだ、だからわれわれ人間も不生不滅である、ということである。すべて言葉は空、すなわち実体がない。言葉は人間が便よく生きようとして考案した一種の道具にすぎない。
 動物も植物もみな生きるために選択をする。世界を二つに区別して自分に有利なほうを選ぶ。動物や植物は無意識にそれをする。ある生物は明と暗を区別し明に向かう。ある生物はその逆を選ぶ。
 人間の場合、言葉をもったために、この選択に関し、他の生物より優位な立場に立った。自らの選択を他者に伝え、それを実行してもらうことや(たとえば「明かりを消してくれ」)、選択に関する種々の新情報を広範囲に伝え、人間の集団的な力を飛躍的に増大させることを可能にした。しかし、その結果、言葉を過大評価するようになった。
 言葉の本質は分別ふんべつすること、ものごとを二つに分けることである。「犬」という、対立語を持たぬように見える言葉ですら、二分を目的としている。「犬」とは犬を犬ならざるものから区別する言葉である。
 分別はインド語vikalpaの訳である。viには「二」の意味がある。周知のようにインド語はヨーロッパ諸語とともに印欧語族を形成する。この語族にかつてdwisと復元しうる言葉があった。これは「二」を意味し(英語のtwo参照)、その省略形は接頭辞として区別を表す語に使われるようになった。インド語のvi-kalpaや、英語のdis-criminate(区別する)、di-vide(分割する)はその例である。


 ヨーロッパでは接頭辞「二」を用いた言葉を使うことに不都合を感じる人はいなかった。むしろ、「分別」は分析的思考を発達させ、科学を推進させる力として歓迎された。ところが、インドの哲学者はこれを人間を過あやまたせ、不幸にする元凶と考えた。人間はあらゆる場合に分別を適用し、どちらが得か損かを考え、心の平安を失い、分別の姉妹である言葉を妄信して不毛な議論に耽ふけるようになった、というのである。
 仏教では分別は煩悩の一つである。兼好法師はいった。「分別みだりに起こりて、得失止む時なし」(『徒然草』第七十五段)。「無分別」(nirvikalpa)こそ理想である。仏教にはこのほかにも言葉や概念(沈黙の言葉)に対する否定的な態度を示す術語が多い。言語道断、無念無想、等々。
 仏教宇宙感には無色界という世界がある。四つの段階からなるが、上位の段階ほど言葉や概念を超えている。再会の「空無辺処くうむへんじょ」はすべてが空であると考える人の世界。「識無辺処」は空すら思考対象にすぎないとし、思考対象のない、純粋な意識のみを残す人の世界。「非想非非想処ひそうひひそうじょ」は排除したという意識すら排除した人の世界。
 「維摩ゆいまの一黙」の逸話によると、あるとき菩薩たちが「不二」(相対観念の否定)とは何かを説明し合っていた。どの菩薩も「それは○○ではない」という表現で説明をおこなった。ついに、それは言葉を超えるのだという主張が提出された。その間ずっと黙っていた維摩居士に文殊菩薩が尋ねると、維摩は黙したままであった。文殊は感嘆していった。「すばらしい、すばらしい、あなたは最もよく不二を説明した」と。

言葉の次元超える真諦
ギリシャ「不生不滅」の限界 [下]

 古代ギリシャにも不生不滅を説く哲学者がいた。「有るものはある、有らぬものはあらぬ」と説いたパルメニデスである。かれはいった。

 有るものが如何いかにして将来滅びゆくことを得ようぞ。また如何にして生じきたることを得ようぞ。何故なら、もし生じたのであれば、それは[その前には]有らぬ し、またもし将来いつか有ろうというのであれば、[現に]有らぬゆえ。かくて生成は消失し、消滅は失踪しっそうした。

 

 

 

 この言葉はパルメニデスが言葉をいかに厳格に用いているかを示している。「或る(=有る)ものが生じる」とはいったいなにか。「有る」なら改めて生じる必要はないではないか、というのである。パルメニデスの主張は不変の主語を立てる言説がいかに矛盾に満ちたものであるかを示している。ひとはそのことに気づかず、不変の主語を立てながら、それが変化するといって、恠あやしまないのである。これについては、「私は変わった」という表現を考えてみるとよい。この「私」は変る前の私を指すのか、と。これなナーガールジュナの「行くものは行かない」の議論(本紙、2006年10月8日)と同じである。
 しかし、ナーガールジュナは言葉の意義を全面否定したのではない。かれは二諦にたい説を説いた(「諦」は「真理」を意味する)。真諦しんたい(paramarthasatya)と俗諦ぞくたい(samvrtisatya)とがあるというのである。俗諦は言説(vyavahara)に支えられている。つまり、かれは言葉の世界を真理の世界の一つとして認めたのである。たしかに言葉の世界は何ぴとをも服膺ふくようせしめる完結した整合性を持っている。一方、真諦はそれと次元を異にし、言葉の世界を超える。
 パルメニデスは徹底した論理主義者(logicist)として評価されている。かれが常識に反するような不生不滅の説を説くことができたのは、かれが徹底して言葉(logos)の世界に殉じたからである。しかし、かれは言葉が所詮しょせんひとつの道具であるということにまでは思い至らなかったようである。言葉を超える世界にインドの哲学者ほどには踏みこまなかったようである。


 かれの思索の不足を埋めるかのような―ナーガールジュナの二諦説に似た―思考が現代フランスの哲学者ベルグソンに見られるので、平凡社『世界大百科事典』<ベルグソン>(平山高次稿)の記事を要約・紹介しておこう。
「 」の中は平山氏の文からの引用である。
 ベルグソンによれば、認識に哲学的認識と科学的認識がある。前者は<何であるか>を問い、後者は<いかにして>を問う。人間はより快適に生きようとするので、必然的に<いかにして>の認識に向かう。その最も洗練されたものが科学的認識である。
 ベルグソンによれば「科学は実在の純粋認識、その純粋理論のためにあるのではなく、事物に対するわれわれの行動の図式を与え、事物に及ぼすわれわれの影響を増大させること、つまり見るために見るのではなく、利用するために見ることをその任務としている」。
 「科学は生活のために存するもの、生活常識の完全化であるから、行動の図式、実在の記号、原物に関する見地を与えれば十分であり、またそれ以外は与ええない。科学的機械論の誤りは、そうした図式や記号によって実在または原物を再構成しうるとするところにある」
 ベルグソンは科学的認識の意義を否定しているのではない。科学的認識をもって認識のすべてであるとすることを批判しているのである。かれはいう、<何であるか>と問わず、「外側から回顧的に<いかにして>を問うかぎり、そこに見いだされるのは可能な多くの見地、アンティノミー(二律背反)だけであろう」。宇宙が有限であるか無限であるかの論争の不毛性をまさしく突いた言葉である。

さだかた・あきら 1936年、東京生まれ。東京大教養学部卒、同大学院印度哲学博士過程終了。文学博士。東海大名誉教授。著書に『空と無我』(講談社現代新書)『インド宇宙誌』(春秋社)『南アジア史1』(共著、山川出版社)など。