道元の料理
立松 和平 たてまつ・わへい 2009年7月4日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
どんな材料でも最高に
一本の草から生き方説く [上]
|
道元の「典座教訓てんぞきょうくん」は何度読み返しても味わい深い。
「一茎草いちきょうそうを拈とりて宝王刹ほうおうさつを建て、一微塵みじんに入いりて大法輪だいほうりんを転てんぜよ」
一本の草のようになんら価値のない材料を使う料理であっても、それによって七宝で荘厳しょうごんした大伽藍だいがらんを建て、これ以上は分割できないような小さなものの中にはいり、偉大な仏の教えを説きつづけよ。
これは料理をするものの心得である。典座とは、禅の修行道場で食事をつかさどる役僧のことだ。修行僧を供養する必要があるから、典座の職がある。典座の職とは、さとりを求める深い心をおこした人だけに割りあてられる職で、純粋で雑念のない仏道修行そのものである。自らも仏道を究めようという心がなかったら、つらいことに心を煩わずらわせるだけで、何も得るところもなく、無駄な仕事ということになってしまう。
料理の材料であるたった一本の草でも、そこに仏道を実現することができるのだ。粗末な材料だからといいかげんに扱ってはならない。また頭乳羹ずにゅうこうのような高級な材料を使って料理をつくる時でも、喜躍歓悦きやくかんえつの心をおこしてはならない。つまり、それに引きずられて喜んだり、浮かれたりしてはいけないということだ。
頭乳羹とは、禅寺にとっては最高級の食材である。頭乳は牛乳で、これを精製すると五味が得られる。乳にゅう・酪らく・生酥しょうそ・塾酥じゅくそ・醍醐だいごが五味である。この中でも最高級の醍醐はすべての病に効く妙薬であり、仏教における最高の段階である涅槃ねはんに通じている。
道元はすべての執着する心をなくしたからには、よい材料だからといって態度を改め卑屈になったり、粗末な材料だからといって怠けることがあってはならないとする。手に入れた材料で最高の料理をつくろうと心がけなければならない。
これは生き方そのもののことである。材料の良し悪しに引きずられて自分の態度を変えることは、対する相手によって人格を変えるようなことであり、自分を失うことだ。これは修行に励んでいるものの行いではない。修行僧に食事を供養する典座ならば、どんな材料からでも最高の料理をつくるようにと、心を砕くべきなのだ。その心掛けが、結局典座自身の修行となる。
その心をもってするなら、一本の草によって大伽藍を建てることもできるし、一微塵の中に入っても広大無辺な仏の教えを説き続けることができるのである。
考えてみるなら、一枚の粗末な菜っ葉であっても、これが自分の手元に届くまでには数々の縁をへてこなければならない。もしある農民が、この菜っ葉は自分がつくったと主張するなら、もちろんそのとおりであるだろう。だが要因はそれだけではない。その人が蒔まいた種を土が受けとめ、水と太陽の恵みを受けて発芽し、育っていく。自然がその菜を包み、成長させていくのだ。そこには大変な縁がはたらいている。種を蒔いた人が収穫したとして、寺院の台所である庫裏くりに届けられるまでも、幾人もの手をへなければならないのである。農民がその菜っ葉は自分がつくったというのは、正確ではない。
一枚の菜っ葉の背景には、森羅万象という真理がついている。菜っ葉が安価で粗末だという外見を持っているのだとしても、真理を粗末に扱うことはできない。料理人はそれを材料として、可能な限り最もよい料理をつくろうと努力をすべきなのである。
道元の思想は、一本の草で七宝の大伽藍を建て、埃ほこりのような一微塵の中にはいって大宝輪を転ずるように、自由自在である。微少な原子から大宇宙に、大宇宙から一分子たる人間に、数量やみかけの大小にとらわれず、思うがままに行き来をしてみせる。一本の草からも人の生き方を説いてみせるのである。
六つの味を積み上げ
正しい順序守り清潔に [下]
|
道元「典座教訓てんぞきょうくん」の言葉である。
「功徳海中くどくかいちゅう、一滴いってきも也また譲ること莫なく、善根山上ぜんごんざんじょう、一塵いちじんも亦積またつむべきか」
典座の仕事をすることは、大海のように功徳を積むようなことである。この大海も一滴一滴が集まってできているのであるから、その一滴一滴を無駄に使ってはならない。つまり、どんな小さなことでも他人まかせにせず、自分自身の修行としてやりとげなければならない。善根を山のように高く積み上げることでも、一塵ともいうべきわずかな土が積み上がれば高山となるのであるから、その一塵を他人まかせおろそかにしてはならないということだ。
意訳をすればこのようになる。どんな大海も一滴一滴でできているといわれればその通りであり、どんな高山も一塵一塵でできているといわれれば、まさにその通りなのだ。道元独特の比喩である。
どんなことでも分解していけば、限りなく微少な単位になっていく。料理にはまず六味ろくみがある。苦く(にがい)・酸さん(すっぱい)・甘かん(あまい)・辛しん(からい)・かん(塩からい)・淡たん(味がうすい)である。ここから淡を除いたのが五味であり、淡とは食材の本来持っている味をそこなわないよう薄味にすることである。淡こそ、味の極意というものだ。「菜根譚さいこんたん」にはこのように書かれている。
「濃肥辛甘のうひしんかんは真の味にあらず、真の味は是これ只ただ淡たんのみ」
このように味を積み上げることも、善根の山上に至ることである。食事の味については六味があるのに対し、料理には三徳もある。軽きょうなんはあっさりして口当たりがよいことで、浄潔じょうけつは清潔でさっぱりしていることで、如法作にょほうさは正しい順序と方法でよってていねいにつくってあることだ。
六味のバランスがよく、三徳がそなわってはじめて、典座が修行僧に食事を供したことになる。修行僧の腹を満たす料理をただつくればよいというのではない。食事のすべてのことに気を配るのが典座なのだ。
米をとぐ時には、砂がまじっていないかとよく気をつける。砂を捨てる時には、米がまじっていないかを気をつけ、念には念をいれて気を緩めない。そうすれば三徳も六味もおのずとすべて整ってくるのである。
米のとぎ汁も、無造作に捨ててはならない。布で袋をつくっておき、そこにとぎ汁をいれてこし、たとえ一粒の米でも無駄にしてはならない。ほどよく水をいれて鍋におさめたなら、ねずみが汚したり、無用の者に触れさせたり覗のぞかせたりしてはならない。
「飯はんを蒸むすには、鍋頭かとうもて自頭じとうと為なし、米こめを淘よなぐには、水は是これ身命しんめいなりと知る」
飯を蒸す時には、鍋は自分そのものだとみなし、米をとぐ時には、水を自分自身の命だと思うのだ。食材を人間の眼のように大切にすると同様に、日常生活で使用するものを敬うやまって大切にしなければならない。
何故なぜ道元が日常の生活の細ごまとしたと思われるものにこだわり、大切にするかということは、道元思想の根本に関わっている。
道元が中国の天童寺に留学し修行をはじめた時のことである。用ゆうという六十八歳の典座が、太陽の照りつける仏殿前の焼けた敷き瓦で海藻を干していた。老典座は杖をつき、笠さえかぶらず、一心不乱に仕事をしている。道元は、そのようなお年でこんな暑い時にせず、下役か雇い人にやらせればよいではないかと話しかける。用典座の答えはこうだ。
「他かれは是これ吾われにあらず。更さらに何いずれの時をか待たん」
他人がしたのでは、自分がしたことにはならない。それならいつやればよいのか。このような意味である。他人にさせてどうして自分の修行なのか。この今やるべきことを今するのが修行なのである。さらに道元は別の僧にこのような言葉を向けられ、修行とは何かを知る。
「徧界曾へんかいかつて蔵かくさず」
この世の中のことは何も隠されているわけではなく、すべてが露あらわになっている。真理もいたるところに満ちているのに、それが見えないのは、我欲などのために目が曇っているからである。真理は寺の中だけにあるのではなく、路上にも、台所にも、自分の部屋にも、掌の上にも、いたるところに遍在している。もちろん食材にもできあがった料理にもである。修行はどこでもできる。真理の象徴である竜の顎あごの下の玉も、苦労して手にいれてみれば、そこいら中玉ではないものはないということだ。
たてまつ・わへい 1947年、栃木県生まれ。早大卒。作家。80年「遠雷」(河出書房新社)で野間文芸新人賞、2007年「道元禅師」(上・下、東京書籍)で泉鏡花文学賞、親鸞賞を受賞。最近の小説に「人生のいちばん美しい場所で」(同)「晩年」(人文書院)、エッセーに「禅語に生きる」(淡交社)「百霊峰巡礼」(東京新聞出版部)など。 |