他者への関心
奈良 康明 なら・やすあき  2009年6月13日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
苦楽を共有しよう

 「秋葉原無差別殺傷事件」は事件から一年が過ぎ、ニュースとしては古くなった。しかし、事件の本質は現代の社会の在りように深く関わっている。被告の青年は「現実の世界では嫌なことがあっても人に言えない。現実の世界から逃げてネットの世界にのめり込んだ。誰でもいいからかまってほしかった」(朝日新聞20.6.21)と言ったという。
 なんで自分の気持ちを人に話せないのか、私などには理解できないのだが、懇意の同じ年代の青年に聞いたら、「ええ、私たちは言いたいことがあっても言わない、したいことがあってもしないんです」という。なんでと聞いたら、「大人」からは叩たたかれ、同じ年配の仲間からは冷たい反応しか戻ってこない。それじゃどうするんだと聞いたら、「周りを見てみんなが動きだしたら同調する」のだそうである。なんと主体性のないことよ、と言ったのだが、なるほど、KYという言葉が流行はやるのもよく分かる気がする。
 「空気読め」(KY)という表現を最初に聞いた時、私はすぐにTPOという言葉を思い出した。時・処ところ・状況を考えて慎重に話し、行動せよ、と私たちは習った。KYも同じで、結構だと思ったのだが、どうも違うらしい。TPOは積極的に自己主張したいのだが、他人様に迷惑のかかるようなことは控えろ、ということであろう。主体性を主張する際に心得るべき注意だが、KYは逆で、主体性の没却にほかならない。自分の殻に閉じこもってしまう。自分が傷つかないよう、自分を大事にしているようで、実は他者との関係を自ら断っているのである。
 語呂合わせではないが、よく言うように、人間とは「人の間」と書く。単に個人が集まっているのではない。すべての人が「関わり合」っている。関わり合いこそが社会、世界の真実である。


 仏典に面白い喩たとえがある。帝釈天が世界に網をかけたという。つまり私たち人間は一つ一つの網目である。網目は単に集合しているのではない。一つの網目は他の網目と無限につながっていて、その全体が網である。つまり、個(の網目)が単に「集合」して全体(網)なのではなく、個の(網目の)限りない「関わり合い」の総体が全体である。だから、網がなければ網目もないが、網目が一つでもなくなると網もなくなる。これは仏教の縁起の社会観である。
 だからこそ、私たちは自分と他人の深い関わりを考え、大切にしなくてはいけないものであろう。若者がまわりの人間から関心をもたれず、無視されたら、孤独に追いやられるのは目に見えている。誉めもされず、叱しかられもしない人生は寂しいに違いない。私はマザー・テレサの「愛の反対は憎しみではない、無関心だ」という言葉をいつも味わい深く思い出している。
 第三者には見えないいろいろな事情はあろう。しかし、同じような状況にありながら、犯罪をおこさない青年が大部分なのだから、「キレ」てしまって罪を犯した青年たち自身の責任は逃れようもない。同時に、今日では、人間関係が希薄になり、家庭が崩壊し、家族の間でさえ心の通い合いがなくなっている。みんながビー玉のようにただ集まり、表面的な接触しかもっていない。エゴがきしんでいる。心の通い合いもないし、他人への思いやりもない。「キレル」若者が多いのも、こうした社会風潮と関係があることは否定できないし、個々の青年や家庭のみの問題だけではすまないものであろう。
 私たちみんながしかるべく他者への関心をもつべきなのではないか。人間同士、お互いに温かい心を交わしながら生きていかなければならないのではないか。今日では他者への関心が失われ、冷たい世界になっている。温かい心、慈悲心、の反対は憎しみではない、無関心である。もう少しお互いに、他者の苦楽を僅わずかずつでもいいから、自分の身にひきあてて受けとめる「他者への関心」を持とうじゃないですか。自主性とは他と共に生きることなのだから。

なら・やすあき 1929年生まれ。東大文学部卒、修士課程終了。駒沢第元学長および総長。駒沢大名誉教授。仏教文化史専攻。著書に『釈尊との対話』(日本放送出版協会)『仏教と人間』『般 若心経講義』『禅の世界』(共編著、以上東京書籍)など多数。