はじめての唯識
多川 俊英 たがわ・しゅんえい  2009年5月30日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
解き明かされた心の構造
重層的な八識でなる  無意識、深層領域まで精緻に [上]

 心を問題にしない宗教なぞないが、そのなか、仏教はことさらに「心の宗教」といわれる。確かに、仏教のごく古い経典『ダンマ・パダ』の冒頭の対句も、―ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる(中村元・訳)、という文章ではじまっている。
 そうした唯心的な傾向を先鋭化させ、私たちをめぐるあらゆることがらを心の要素・心のはたらきに還元し、心の問題として考えようとするのが唯識仏教だ。
 あらゆることがらだから、物の世界も肉体も、浄土(理想の世界)も、そして、自然や環境もすべて心、それも他ならぬ「わが心」の問題だとする考え方である。
 唯識とは、読んで字のごとく「ただ識(こころ)だけ」ということ。すべては識から転変していて、外界の実在などないというのだ。
 この唯識という考え方は西暦4、5世紀ころ、インドの学僧で実の兄弟だったアサンガ(無著むじゃく)とヴァスバンドウ(世親せしん) によって体系化された。そして、隋唐の中国や朝鮮半島を経て、日本へは7・8世紀に導入された。いら、ならを中心に連綿と継承され、また、仏教の基礎学としても広く学ばれている。そんな唯識仏教の特徴をかいつまんで紹介したい。
 ところで、「事実」というのは一般に、動かしがたいものと思われている。が、本当にそうなのかどうか。尾崎放哉おざきほうさいの俳句に、―事実といふ事話しあつてる柿がころがつてゐる、というのがある。
 事実というのは、いわばそこに柿がころがっているようなもの。つまり、それで終わりなのではなく、それをどう心の中で思っているか―。そこが問題なんだ、というのがこの句の意味だろう。
 たとえば、今日一日なんの食べ物にもありつけずにいたらそれはもう、その柿に喉から手が出る思いであろう。他方、飽食の現代人なら、その辺にころがっている柿なぞ、およそ一顧だにしまい。
 あるいは、―越すに越せない心の垣根、という。そんなもの、どこにもないのだけれど、そのないはずの垣根にさえぎられて、どうしても一歩踏み出せないわけだ。誰にでも経験があろう。


 こうしてみると、私たち一人ひとりの世界も、事実がどうというより、その時々の好都合や不都合、あるいは好悪、愛や憎しみなどをからませながら自ら描いた心の世界そのものだといってよい。
 そういう心というものを、唯識仏教はどう考えているのだろうか。端的にいって単一でなく八識、しかも、それらが重層構造になっているのだという。
 八識とは、眼げん識・耳識・鼻識・舌識・身しん識(前五識)・意識・末那まな識・阿頼耶あらや識だ。
 このなか、眼識などの前五識は、視覚・聴覚・嗅覚きゅうかく・味覚・触覚の五感覚。そして、意識はふつういうところの心で、知・情・意の働きとしてとらえられる。
 これらはみな、私たちにとって日常生活に直結する具体的な心作用だが、感覚は対象がないと動かないし、意識も眠れば、たちまち働かない。これらはいってみれば、心の表面でのトギレトギレの働きにすぎない。
 ここに、そうしたトギレトギレの表面心を常にバックアップし、また、統一性を保たせている深い心が想定されるが、その心の深層領域が阿羅耶識だ。
 阿羅耶識は、「蔵」とか「保有する」意味の古代インド語アーラヤの音写。つまり、私なら私の阿羅耶識には、私の過去の行動情報がすべて蓄積されており、また、それが同時に、私のあらゆるものを生み出す大本おおもとなのだという。
 なお、末那識とは意識下の自己中心性だ。いわば通奏低音というか声なき声で、意識に対して絶えず自己愛をささやきかけているという。
 意識下に、茫漠ぼうばくとした無意識の世界が広がっている。それはいまや常識であろう。唯識はそれを西暦4、5世紀にすでに、しかも精緻せいちに見究みきわめていたのだ。

深い心に問う
無意識も含め「いのち」 肉体だけを切り離せない [下]

 私たちの日常はおおむね、自覚的な判断や意識的な行動によって組み立てられている。と思われているが、その意識下には茫漠とした無意識の世界が広がっていて、意識レベルだけでは、人間の問題はとらえ切れない。
 イヤむしろ、意識は心の表面・氷山の一角にすぎず、意識下にこそ、問題を解くカギがあるとみるのが、唯識仏教の人間観だ。
 唯識では、 阿羅耶識あらやしきという深い心にすべての根源を見出すが、その阿羅耶識をめぐる心的メカニズムに、「現行薫種子げんぎょうくんしゅうじ(現行は種子を薫ずる)」というのがある。
 現行とは、じっさいの行為行動だ。私たちの現行は済めば終わり、というものではない。その行動の情報(これを種子とよぶ)が、阿羅耶識という深い心に植えつけられる。それが現行薫種子だ。
 たとえ一瞬、心をよぎった憎悪の気持ちであっても、あるいは、自己中心的な想念も、当の本人さえ忘れるほど密ひそやかなものであったとしても、そうした心の動きの情報が間髪を入れず、阿羅耶識に送りこまれ、保存されるのだ。
 阿羅耶とは「蔵」を意味する古代インド語アーラヤの音写。阿羅耶識はまさに、わた行動情報を集積・保存する場なのだ。そして、さらに重要なことは、そうして阿羅耶識中に保存された行動情報から、その後、さまざまな条件の下、現行が生じると考えられている。それを「種子生現行しゅうじしょうげんぎょう(種子は現行を生ずる)」という。
 こうした唯識の考え方によれば、現在の自己とは、他ならぬ自身の行為の結果だ。
 私たちの社会は、老いることを価値の喪失なぞと否定的にみがちであるが、人生経験という種子の蓄積からいえば、むしろ、積極的な意味を見出せるのではないだろうか。
 ここでふたたび、尾崎放哉の俳句だが、―なぎさふりかへる我が足跡も無く、というのがある。渚の足跡はなるほど、寄せては返す波に消される。おのずから人生のむなしさ・はかなさがしのばれる。
 しかし、唯識からいえば、人生を地道に歩いた跡はわが心のうちにこそ在る―。技術革新のめざましい時代、過去の経験なぞ、もはや役に立たないといわれる。が、それは革新する技術の話であって、「人が人として生きていくこと」に敷衍ふえんしてはいけない。人が人として生きていくのに、古いも新しいもない。阿羅耶識に蓄積された人生の厚みを想わないなんて、それこそ死蔵であろう。


 ところで、阿羅耶識はこうした行動情報の種子だけで無く、有根身うこんじんと器世間をも対象にしていると考えられている。有根身とは肉体、器世間とは自然のことである。
 このなか、無意識の阿羅耶識が肉体にもかかわっているというのは、はなはだ重要な見解だ。それというのも、日本では1997年に臓器移植法が成立したが、現在に至るまで、臓器提供がはなはだ少ない。とくに子供の提供には15歳未満は不可と制限されており、法改正の議論がある。要するに、法律の高いハードルが臓器提供を妨げているというのだ。
 しかし、法律の問題というより、そもそも臓器移植の前提となる脳死自体が、私たちの社会に受容されていないのではないかと思うのだ。
 つまり、死とはつねに一個の人間全体にかかわることがらであるにもかかわらず、脳死という死の概念が、臓器のやりとりという部分から出ていることだ。この違和感を、少なくとも私はぬぐいさることができない。
 もうひとつは、自分の肉体(臓器)だから、自分に決定権があるという点である。毛お気づきのように、阿羅耶識が第一義的に肉体にかかわっていると考える立場からは、そのような自己決定権は認められない。
 決定とはいうまでもなく、表面的な意識レベルの心の働きだ。いくら慎重に検討した上での判断・決定であっても、そして、それが善意にかなったものであっても、問題は残るのだ。げんに、肉体にかかわる自己決定については、臓器売買や売春など、さまざまな社会問題ないし事件がおきている。
 それはともかく、意識は氷山の一角。その下には、はかり知れない無意識の世界が広がっている。そして、その全体が人間なんだ。というのが現代の常識であるならば、肉体あるいは「いのち」の問題を意識レベルだけでなく、意識下の深い心にも、いや、深い心にこそ問うてみるべきではないだろうか。

たがわ・しゅんえい 1947年、奈良県生まれ。立命館大文学部卒。興福寺貫主。著書に『はじめての唯識』(春秋社)『貞慶「愚迷発心集」を読む―心の闇を見つめる―』(同)『心に響く99の言葉―東洋の風韻―』(ダイヤモンド社)など。