生死観と時間
広井 良典 ひろい・よしのり  2008年12月14日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
二つの人生のイメージ
「帰る場所」を求めて [上]

 少し前に「千の風になって」という歌が人気を集めた。そこでは「死」あるいは「生死観」ということが主題になっているが、今こうした歌がヒットするということには、次のような日本社会全体に関する時代背景があるように思われる。
 戦後の日本社会は、経済の成長あるいは物質的な富の拡大ということをもっぱら目標にして走ってきた。個人の人生にたとえると、社会全体が文字通り「若く」、〝上昇、進歩、成長〟という方向にひたすら坂道を登っていった。それは「生」を限りなく拡大していくということでもあり、その先にある老いや死といったことにはあまり関心を払わず、視野の外に置いてきたのである。
 ところが物質的な富が飽和する中で経済も成熟化の時代を迎えつつあり、日本社会全体がいわば「離陸」から「着陸」の方向を模索しつつある。そして生死観の再構築ということが、日本人全体にとっての大きな課題となっているのではないか。
 この場合、どのような生死観を持つかはもちろん一人ひとりにかかっているが、生死観というものは「時間」ということと深く関連していると私は考えている。
 話の手がかりとして「人生」のイメージというものを考えてみたい。人生、つまり人が生まれ、成長し、老い、死んでいくという全体的な過程について人々がもつイメージには、さしあたり大きく二つのタイプがあるように思われる。ひとつは「直線としての人生のイメージ」であり、もうひとつは「円環としての人生イメージ」だ。
 前者の場合、人生とは基本的に"上昇、進歩する線"のようなものであり、死はその果ての「無」への落下という意味合いが強くなる。おそらく高度成長時代を駆け抜けてきた戦後の日本人にとっての人生イメージは、大方こちらに近かったと言えるのではなかろうか。他方、後者(円環としての人生イメージ)のほうでは、人生とは、生まれた場所からいわば大きく弧を描いてもとの場所に戻っていくようなプロセスとして考えられる。この見方では、「生」と「死」とは同じ場所に位置することになる。


 私にとって、そもそもこうした円環的な人生イメージを具体的に感じるきっかけを与えてくれたのは、『バウンティフルへの旅』という1985年のアメリカ映画だった。「バウンティフル」はアメリカ南部の地名で、主演女優のジェラルディン・ペイジはこの作品により同年のアカデミー主演女優賞を受賞している。
 内容を簡単に紹介すると、ペイジ演ずる主人公の高齢の女性は、夫には大分以前に先立たれ今は息子夫婦とともに町に暮らしている。自分の死がそう遠くないであろうことを意識し始めている彼女は、死ぬ前に一度だけ、生まれ育った場所であるバウンティフルを訪れたいと思うようになる。バウンティフルは遠く離れた田舎の場所であり、今ではほとんどただの草原のようになっているところだ。彼女は周到に計画を立てた上で、ある日こっそり家を抜け出し、長距離バスを乗り継いでバウンティフルまでの旅を「決行」することになる。
 ここから先はむしろ映画をご覧ただければと思うが、「自分が生まれ育った場所を、死ぬ前にもう一度見とどけたい」という思いは、人間の心の深い部分に根ざした普遍的な願いのように思われる。このことを先の「円環としての人生イメージ」と結びつけて考えると、彼女にとってバウンティフルは、「生まれた場所」であると同時に、いわば「たましいの帰っていく場所」ともいうべき存在としてあったのではないだろうか。
 私自身は、死生観においてもっとも重要なことは、その人にとってのこうした「帰っていく場所」を見いだすことではないかと考えている。次回はこのことを「深層の時間」という視点とともにさらに考えてみたい。

深層の時間
生と死がつながる場所 [下]

 人生というもののイメージに大きく「直線としての人生イメージ」と、「円環としての人生イメージ」の二つがあり、特に後者の関連で、自分にとっての「たましいの帰っていく場所」ともいうべきものを見つけていくことが重要ではないかということを前回述べた。こうしたことを時間ということの意味をさらに探るかたちで考えてみよう。
 私たちは、日々の生活の中で、いわば「日常の時間」というべき時間を生きている。それは通常、「カレンダー」的な時間であり、過去から未来へとつらなる「直線」としての時間である。
 しかしそうした「直線的な時間」というものは、決して絶対唯一のものではなく、そうした時間のいわば根底に、それとは異なる時間の相があるとは考えられないだろうか。
 たとえて言うと次のようなことである。川や、あるいは海での水の流れを考えると、表面は速い速度で流れ、水がどんどん流れ去っている。しかしその底のほうの部分になると、流れのスピードは次第にゆったりとしたものとなり、場合によってはほとんど動かない状態であったりする。これと同じようなことが「時間」についても言えるのではないだろうか。日々刻々と、あるいは瞬間、瞬間に過ぎ去り、変化していく時間。この「カレンダー的な時間」の底に、もう少し深い時間の層というべきものが存在し、私たちの生はそうした時間の層によって支えられているとは考えられないだろうか?
 私は、そうした時間の層を「深層の時間」と呼んでみたい。このように述べるとずいぶんと非科学的なことを主張しているように響くかもしれないが、たとえば宇宙物理学者で著明なホーキング博士なども、直線的な時間というものは一種の仮説であり、人間が宇宙につけた指標のようなものにすぎないと述べている。また別の文脈では、人間が認識しているのはあくまで「人間の時間」であって、それはあくまで時間の一つに過ぎず、様々な生き物はそれぞれにおいて異なる固有の「時間」の中を生きているという見方が一般的となっている。このように「直線的な時間」は決して唯一絶対のものではないのである。


 前回から述べている「直線」と「円環」との対比にそくして言えば、これらは並列する関係にあるというよりは、いわば時間の異なる層を示しており、もっとも表層にあるのが「直線的な時間」で、その底には回帰する円環としての時間があり、さらにその底には、根底にある「深層の時間」が存在する。
 そうした「深層の時間」は、先ほど海や川の水の流れにたとえたように、もっとも底にある不動の部分であり、刻々と変化していく事象の中にあって"変わらないもの"ともいえる。そしてさらに考えていくと、そうした深層の時間は、いわば「生と死がふれあう場所」ともいえるような性格をもっているのではないだろうか。
 思えば、文学作品や映画の中には「死者との再会」を描いたものがある。私にとって印象的であったものの例を挙げると、山田太一氏の『異人たちとの夏』や、ケビン・コスナーが主演したアメリカ映画の『フィールド・オブ・ドリームズ』(1990年)などがある。前者の場合、中年の主人公は、小さい頃に交通事故で亡くした両親と、生まれ育った下町をふと訪れた時に"再会"し、ひとときの忘れがたい時間を過ごす。それは主人公にとって人生の大きな節目の時期での出来事であった。
 もちろん私たちが、亡くなった親しい人に「現実に」再会するということはあり得ないことである。その意味で以上のような文学作品や映画における「死者との再会」は"象徴的"な表現にとどまる。しかしそれらが人々に訴える力を持つのは、「生」はそのもっとも根底のところで実は「死」とつながっており、そのことに人々が意識の底で気づいているからではないだろうか。
 言い換えると、私たちは「生」と「死」というものをまったく接点のない対立物と考えがちであるが、生と死はむしろ連続的なものなのではないか。そして「深層の時間」との関連では、それは生と死がふれあうような時間の層であり、私たちの生は、深層の時間において、死とつながっているのではないだろうか。
 死生観ということを「時間」というテーマを手がかりに考えてきた。いずれにしても、それぞれの仕方で生死観の再構築を行っていくことが、現在の日本においてもっとも根本にある課題であると思えるのである。

ひろい・よしのり 1961年、岡山市生まれ。東京大学教養学部卒業。厚生省課長補佐を経て、現在、千葉大教授。専攻は社会保障、医療を中心とする公共政策及び科学哲学。著書に『死生観を問いなおす』(ちくま新書)、『定常型社会』(岩波新書)、『ケア学』(医学書院)等多数。