釈迦に学ぶ
田上 太秀 たがみ・たいしゅう  2009年12月5日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
変化しながら縁り合い 共生しながら生終える [上]

 生命現象の核を解くキーワードに「動的平衡どうてきへいこう」がある。福岡伸一・青山学院大教授の説によると、私たちの体はこれを構成する物質がつねに分解と合成を繰り返していれかわり、これが継続しているという。そして「私」という一個体を支える物質的な基盤はなく、すべての生命は物質の流れの中の一時的な「よどみ」のようなもので、生命がつねにダイナミックに変化しながら全体としてバランスを保っていることを「動的平衡」というそうである。
 また、自然界の多種多様な生物はそれぞれの種が決まったものだけを食べ、かぎられた場所で住み、禁欲的な生き方をして、それぞれが自分の分を守って生きているという。さらに彼らは自分に合った「くぼみ」にあって互いに住み分けをしている。だから互いに無駄な争いをせず、他の領分を侵さないので、多くの生物が繁栄できていると述べる。


 この説を福岡氏の著書や新聞記事で読んだ時に、私は二千五百年前の釈迦しゃかの説に重ねてみた。釈迦は自然界は神が創造したのではなく、種々の要素が集合して、それが相乗し、複合し、融合してつながり、さらにすべてが依存・相関して生成し、消滅することを繰り返し、相続しているとさとったのである。これを仏典では衆縁和合しゅえんわごうと表している。これを私流に言うと、世間は寄り合い、縁り合い、依り合いの場所といえる。釈迦はすでに福岡教授の説を先取りしていた。
 日頃、私たちは世間は無常だというが、なぜ無常なのかと考えた人がいるだろうか。答えは衆縁和合しているから無常なのである。短時間に変化する無常もあり、長期間にゆっくりと変化する無常もある。自分の体も無常である。誕生直後の自分と今の自分とは全く異人である。それは細胞が分解と合成を繰り返し、入れ替わっているからまったく違う自分なのだ。しかし私という体の存在は相続している。
 今の自分は一時的な「よどみ」にすぎない。そんな私の体に私という確固たる存在があるだろうか。教授の説のように私という個体を支える基盤となる物質はなく、私自体はまさに衆縁和合の結果であり、物質の流れの一時的なよどみであるから、私というものも、私のものもないのである。釈迦はこれを無我と言った。
 つまり「私」の体も心も考えも、みな衆縁和合してできたものにすぎない。また、ものはたえず変化しながら相続しているので永遠不滅なものは一つもないと教えたのである。


 人は生まれ、老い、そして死ぬ。この流れは必定で避けられない。母から授かった体は絶えず変化し、衰え、そして死を迎える。誕生後、絶えず変化し続け、死をもって生命活動を終える。人生は生から老へ、老から死への流れで、この流れは止められない。この流れの中で何一つ自分の思うようになることはない。
 死後どこに行くかと悩む人がいるが、生まれる前、父母のどちらにいたかを尋ねてみるがよい。その答えを得ないうちは死後のことを悩むことはない。
 人も他の生物もみな衆縁和合の結果にすぎず、前世や来世を誰が教えられよう。今、この避けられない生老死の流れの中で何が安らぎの生き方かを考えるのが先ではないか。日々、つねにいつくしむ心をもてば長寿を得ると釈迦は言った。
 病も衆縁和合の結果で、神の業ではないから、体の病は薬で、心の病は心でしか治せない。そして人間相互の信頼関係、つまりお互いに相手の力となり、身になるのが薬となる。ここに幸せな共存があり、相互扶助の生き方があると考えている。
 自然環境の衆縁和合のありようが真の共生である。

行儀作法を繰り返せば 悪をしない習慣が体に [下]

 近年の新聞に殺人、強盗、恐喝、いじめ、家庭内暴力のニュースが掲載されていない日はない。これらが日常茶飯事となってしまっている。
 例えば殺人をゲーム感覚でする人。虫を殺すように殺あやめる人、殺しを楽しむような人など。親を殺す、子を殺す、兄弟姉妹を殺すのに抵抗がなくなっている。
 よく命の大切さを教えない家庭や学校での教育に原因があるといわれる。はたしてそうであろうか。その一面もあるかもしれないが、殺人を犯した人が命の大切さを知らないとは思えない。かれらも人の命を奪ってはならないことは十分自覚しているはずである。それがなぜ殺人に走るのだろうか。


 殺人だけでなく、なぜ上のような悪事をするのだろうか。考えるに、根本はしっかりした行儀作法が教えられていないことにある。とくに家庭でその教育がおろそかになっているといえないだろうか。
 知識偏重の近年の教育には情操教育がおろそかになっている。情報化時代に育っている子供の知識は豊富である。しかし情操の面では彼らの心は不安定である。広範な高度の知識を持っているが、行儀作法がまったくといっていいほど身についていない子供が多い。
 たとえば食事時の行儀、あいさつの行儀、言葉遣いの行儀、他人への気遣いの行儀など日常生活でもっとも基本的な行儀作法があまりにも乱れている。家庭でまず教えておくべきことではないか。よく学校で教えてもらえという親がいる。とんでもない。親自身が範を示すべきことではないか。
 行儀作法というとなにか古風で堅苦しいといわれるが、これはエチケットのことである。日常の立ち振る舞いの規則とか手本となる姿や形をいう。


 自動車は運転の作法と交通ルールを学ばないと運転できない。それだけではない。それらを実習して習得しないと道路を走ることが許されない。運転のときはこれらの行儀作法が身についていなければならない。この行儀作法を守っているから、安心して車を運転でき、歩行者も安心して道を歩けるのではないか。
 東京の一地域を走る東急バス内で「交通ルール 守るあなたが 守られる」という標語がスピーカーから流れる。ルールをまず自分がしっかり守れば、巡って自分が守られると教えた標語である。それは社会は共存共生の衆縁しゅえん和合の場所だからである。
 これと同じで、親が家庭で基本的な行儀作法をしっかりと教え、身につけさせると、子供は学校や社会で多くの人と仲良く交際することができ、同時にその人々に支えられるだろう。


 周知のように釈迦は人の道を説いた聖者であるが、彼の説いた道の基本は戒にあった。戒というと戒いましめ、つまり命令的な規則、禁止、懲戒、掟おきてと考えられるが、釈迦が使った戒の原語はシーラといい、習慣という意味である。聖書のモーセの十戒はヘブライ語で「十の言葉」であるが、内容は「してはいけない」という神の戒めである。ところが釈迦の戒は「しない」という自律的習慣的な行為を意味する。
 戒とは行儀作法のことで、行儀作法を繰り返し実践すれば体に習慣となる。その戒が身についた人の姿は高潔で、清々すがすがしい。聖人、達人、名人といわれる人の言行が美しいのはその証あかしである。
 子供の時に泳ぎを習得した人は老いても泳げる。昔から「三つ子の魂百まで」というが、行儀作法は小さい時に身につけたものは生涯忘れないという意味である。
 戒は匂においにたとえられる。一度身についた匂い(戒)は体から消えない。親が小さい時から悪事を「しない」習慣をつけさせれば、一生そのしつけが子供を悪事に向かわせないはずである。

たがみ・たいしゅう 1935年、ペルー・リマ市生まれ。東京大大学院博士課程修了。インド仏教・禅思想。駒沢大教授、駒沢大禅研究所所長などを歴任。駒沢大名誉教授、文学博士。主な著書は『仏教と女性』『ブッダが語る人間関係の智慧』(東京書籍)『仏陀のいいたかったこと』『禅語散策』『道元の考えたこと』(講談社学術文庫)『ブッダ臨終の説法』全四巻(大蔵出版)など。